裏話集 其二  平城天皇

 ここに迷いこんでしまった方へ。こちらは、私が思っていることを雑談的に書いていく場所です(特定商取引法って、たぶん私には関係ないと思うので笑)

 実は、『春雨物語』の記事をたくさん出してみておもったのですが、もし平城天皇がわずか四年で譲位しなければ、かなり平安初期の雰囲気って違っていたのかも……みたいに思えてきたので、それについてです(めちゃくちゃ思いつきな雑談です)

 ちなみに、平城天皇は躁鬱気味で、かなり一時の気の迷いで譲ってしまった――とされていることもあり、もし躁鬱が少しでも落ち着いていたら、ふつうにそのまま平城朝が20年くらいつづいたのかもです。

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平城・嵯峨・淳和朝

 まず、桓武天皇には、平城天皇とならんで、のちの嵯峨天皇・淳和天皇という皇子みこたちがいました。

 もっとも、じつは平城天皇(774~824、位806~809)がかなり短くなってしまい、嵯峨天皇(786~842、位809~824)・淳和天皇(786~833、位823~833)のように兄弟で帝位をゆずることになるのですが、気の迷いで譲位しなければ平城朝は20年くらいつづきます(まぁ、途中で兄弟譲位するかもだけど、10年くらいは平城朝かもです)

 平城天皇の方針をすごくざっくり云ってしまうと「地方重視の素朴型体制」です。

 観察使(地方をどうごとに治める上級官員)だったり、余分な人員削減・官署の合併化・税をなるべく減らして民の疲れを取る――などが大きな路線なので、地方を重んじているのがわかります(逆に、先帝の桓武天皇は、平安遷都などでかなり負担がおおきいです……)

 もっとも、観察使では、東山道(岐阜・長野・群馬・栃木~東北まで)だったり、東海道(三重県~千葉・茨城県までの太平洋側)みたいに、もはや一人でみるのが無理なくらい大きすぎるので、しばらくすると大きすぎる道はたぶん前東山道・奥東山道みたいに分けたかもですが。

 あと、官署の合併はかなり貴族たちに嫌がられます(もらえるお金などが減るので笑)。ちなみに、平城朝の詔勅をみていると、かなりの頻度で未納税の帳消しなどが出てきます(ほかの天皇とくらべても、かなり多いとおもう)

 わたしの勝手な雑感だけど、民として生きるなら、桓武天皇は地獄ですね。終わらない労役と、すさまじい重税などが課されて、たぶん逃げて山に隠れてますね(笑)

 一方で、平城天皇は、平安京も未完成でそのままでいい――みたいになっていて、すごくありがたいというか。たぶん地方の整備とかに重きを置く路線なので、それが10年くらいつづいていたら、かなり回復するかもです。

 さらに、平城京に戻す宣言もあったくらいなので、未完成の平安京よりも、それなりに整っている平城京がふたたび都に戻るはずです。

 そして、嵯峨天皇はたぶん皇太子として文化担当(書・詩賦など)として、淳和天皇は実務派皇族(法制整理など)として、それぞれ有名になっていそうです。

 あと、平城天皇は藤原薬子ひとりで満足なタイプなので、後宮もかなり小さくなって、皇族もかなり少なくなりそうです。なんていうか、すごく小国的な雰囲気ですよね(宮中儀礼の唐物飾りとか、地方からの侍女などは、すべて廃止しているし、権威付けはあまり大事じゃないというか)

 そうすると、平安京は未開発のまま放置されて、西半分などはかなり湿地だらけのままになって、秋風颯々として、たぶん嵯峨天皇はそのほうが好きそうかもです(わざわざ嵯峨野に上皇御所をつくる感性なので)

 なので、平城天皇のいる平城京と、巨大な庭苑化している旧平安京みたいになって、嵯峨天皇はたぶん平安京に東宮御所をつくることになります(たぶん当面は即位しないモードかもです)。湿地だらけのなかに浮かぶようにつくられた御所は、ほとんどリゾートor避暑地みたいになります(まぁ、京都は暑いけど)

在地雑密

 ちなみに、桓武天皇が平安京に遷ったのは、仏教勢力との癒着を離れるためでもあったけど、玄昉・道鏡などはたぶんあまり出てこない気がします(あのころは、たぶん仏教側も権力との距離感が分からなくて、宮廷内でも仏教との関係をうまくつかめてないというか)

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 平安初期に入ってきた天台宗・真言宗などは、それなりに重んじられたけど、でも宮中を転覆させるほどの大事おおごとは起こすつもりは無さそうじゃないですか(むしろ、天平期があまりにも突然異質なものを流しこまれて、無理やり体制・文化を変えられて混乱しているというか)

 なので、天台宗はたぶん初瀬(長谷寺のあたり)、真言宗は南都のどこか&高野山みたいになりそうです。それよりも、地方重視のスタイルになると、たぶん泰澄・能除みたいな在地のあやしげな初期修験道みたいな勢力がもっと有名になりそうです。

 ちなみに、泰澄は北陸の白山、能除は東北の羽黒山のそれぞれ開祖です。地方のことをみていると、まだ未整理な密教(呪術的な仏教)があちこちの山霊信仰と混ざりあっている――というのが伝わってきて、むしろそっちとの関係が重視されていきます。

 在地の雑密(未整理な密教)があやしい呪術結社にならないために、たぶん真言宗はその総まとめとしての側面が重んじられていき、天台宗(天平期の学術系仏教と密教の融合型)はおそらく南都(平城京)の諸宗と密教をつなぐ感じになっていくのかもです。

(ちなみに、史実では真言宗・天台宗は、どちらも貴族や宮中での祈禱、もしくは呪詛などと結びついていきますが、地方にもっと不気味な勢力がいると、その取りまとめのほうが大事になっていくはずです)

 たぶんですが、空海は唐に渡る前には、地方の雑密修験者みたいな過ごし方もしていたので、たぶん練り上げられた密教ということで歓迎されてそうです。むしろ、空海の雑体書(雲や鳥虫などに似せた書体。「益田池碑銘」が有名)は、すごく好まれるとおもいます(あれって、たぶん唐でみてきた道教の呪符が原案だと思うんですよね。道教では雲篆というのがあって、雷神雲将をよびだすために雲のような篆書だったり、雨かんむりの造字が用いられます。空海のはもっと芸術的にしたver.です♪上段が空海、そのつぎのが道教の雲篆です)

 ちなみに、空海はこちらの大和国益田池みたいな溜め池をつくったりしていますが、なんとなく昔どこかのスピリチュアル系ブログで、日本の民間仏教は行基系(衆生救済型。溜め池・堤づくりなど)・役小角えんのおづの系(呪術型。山中で神力を会得しているタイプ)の二つの系譜があって、空海はたぐいまれなタイプでその二つを兼ねている――みたいに書いているのをみたことがあるのですが、たぶん在地雑密の取りまとめ&平城天皇の地方重視を兼ねるようにたぶん活躍するはずです(しいていうなら、南都諸宗は鑑真系の学術タイプかもです……)

北国ファースタイル&西国メイク

 観察使は、ひとり一道体制だったといいますが、しだいにほどよい配分にしていくはずです。もっとも、唐の節度使化(安禄山みたいに地方の軍を握る)が怖いので、3~5年で配置換え&軍事権は奪っておくのが大事です。

 平城天皇は、民間の力が戻るのを大事にするタイプなので、しばらくは落ち着いた世になりますが、しだいに民間で産物などが豊かになってくると、渤海・新羅・唐などと民間貿易をするために港づくりなどもしていくかもです(たぶん10年目くらいです。こういう方面にお金をつかうのは意味があります)

 そうすると、渤海から北陸にはたぶん黒貂クロテン・豹などの毛皮が入ってきて、唐から西国(九州など)には磁器・織物・唐紙・お香などが入ってきます。そうすると、しだいに奢侈になっていくのが風俗の常なので、たぶんしばらくして官服には北国ではファーがつくようになり(寒さ対策も兼ねる)、西国では晩唐ふうの泪妝(冷え泣きメイク)・血暈妝(泣き腫れメイク)・八字眉さがりまゆなどが流行るようになります。

 さらに、西国には唐の商人がもちこんだ妓楼の曲なども流れこんで、蝶恋花・玉楼春・菩薩蛮などがしだいに日本語詞になっていきます(笑)

 観察使はそんなわけで、しだいに地方文化を紹介する役割も兼ねていくことになります。あと、平城天皇は『万葉集』を整理したともいわれているので(だいたいのは大伴家持がまとめていたけど、最後の整理・清書は平城朝におこなわれたらしい)、ついでに各地の土着和歌みたいなものをまとめさせるかもです。

 なので、万葉以来の呪術的な感性が、すこしずつ変わっていく様子がかなりたくさん残されることになり、かなり不思議で飄忽とした話とかがまとめられていきます。

 めっちゃ余談だけど、なんとなく『更級日記』にでてくるこちらの話みたいなのが、たぶん各地にあったのかも……とかおもっています。

ある年に、ちょっと近くまで出かけたときに、とてつもなく暑くて参ってしまい、この富士川(静岡県の川)のちかくで休んでいたら、川の上をさらさらと黄色いものが流れてきたので、川辺の葦などに引っかかっているのを取り上げてみてみれば、黄色い料紙かみに丹書して、その怪誕ふしぎなことは来年の官員の除目ならびなどが書かれていた。

さらに駿河国については、国司として二人の名があったので、国司は本来ひとりのはずなのに変なことだとおもって、それでも干してしまっておいたら、果して来年の官員除擢えらびでは、この料紙かみにかかれたとおりだった。

しかも、駿河国の国司は、三月に亡くなってしまったので、途中で新しい国司がおくられてきて、やはりその通りの名だった。このようなことから、どうやら来年の官員のこと等も、この山(富士山)に神々があつまって、話し合っている――ということらしい。(『更級日記』富士川)

 これって、官員の話と地方伝承が奇妙にまざっていて、すごくよくないですか。あと、たぶん嵯峨天皇は、地方の奇怪な伝承をまとめる事業などを任されていくことになって、その主筆になるので、白山の泰澄のよびだした崎𡾟繽紛きしきしうろろかたる十一面観音(白山権現)だったり、臲兀げつごつたる名もない山々を讃えたり、三仏寺奥院の投げ入れ堂のまわりには五雲飛舞する如く蜿々窿々として琳琅たまかざりの満溢するような、てかてかと濃厚な初唐四傑調をおそらく選ぶはずです(嵯峨天皇はたぶん題材にあわせてスタイルを変えるタイプなので)

嵯峨院の宮苑詩壇 「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。  こちらの記事では、平安初期の嵯峨天皇の頃についてです。嵯峨天皇は、中国...

 そして、嵯峨天皇のもとでそれに倣った文人貴族たちも、ぎとぎと油々然でろでろと重くてぎつぎつたる駢文にあわせていくようになって、たぶん平城天皇の和様と嵯峨天皇の唐様はやはり二つならんでいくことになります。

 ……ということで、まぁここから先はどうなるのかはかなり謎ですが、少なくともその二十年くらいはたぶんかなり違った雰囲気になりそうです(すさまじく雑な話だけど笑)

 まぁ、何も意味のない記事だったのですが、お読みいただきありがとうございました。どうでもいいけど、北岳白山廟碑とか、南岳熊野山祭文とかをたぶん嵯峨天皇は即位後につくるかもしれなくて、その味わいは「高奇しらじらにして晦遠ほのめかしくて――、壮哉邈乎ぞよぞよぼやぼやとしてそら恐ろし」みたいな感じだったのかもです(すごくみてみたい)