その他

荘子と芸道思想

「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。

 こちらの記事では、『荘子』と芸道思想――みたいな話をしていきます。ちなみに、「芸道」とは、日本の室町期あたりで、さまざまな技芸をつうじて「神秘主義(この世界と一体になったような気分)」を感じる――みたいな感じです。

(ちなみに、ここで云う神秘主義は、妖しいまじないとかではなくて、世界と一つになったような、神秘的でふしぎな感覚――みたいなことです)

 あと、『荘子』では、人間は雑多にして複雑な世界の一つなので、吹き鳴る風のように多彩で未整理なまま生きているのが天命を生きる姿なのだけど――、みたいな感じがあって、すごく神秘主義的なのです。

 でも、わたしが興味深いのはここからで、むしろ『荘子』の未整理にして複雑な渾沌は、実際の技によって奇妙なかたちになっていて、人や時代によってぐにゃぐにゃとしている豊かさだったりします(笑)

 というわけで、さっそく本題に入っていきます。

中央の渾沌

 まず、前近代の中国では、いろいろな技芸のことを「芸術」といっていました(「技芸・技術」みたいなニュアンス)

永和元年、伏無忌と黄景をよびだして、宮中の五経・諸子百家・芸術などの書を整理させた。
注釈:芸とは、書・算術・弓・馬の扱いなど。術とは、医術・方伎・卜筮など。

永和元年、詔無忌與議郎黄景校定中書五経・諸子百家・芸術。
注釈:芸謂書・数・射・御、術謂医・方・卜筮。(『後漢書』伏湛伝より)

 これは後漢のときなのですが、「芸術」と云ったときに書だったり、医術だったり、卜筮うらないだったりが含まれています。そして、現代に馴染みのないのはたぶん「方伎ほうぎ」だと思うのですが、これは長生(植物や鉱物の薬を飲んで、身を保つこと)・房中(閨房ねやでの健康術)・祭儀(山川の神々をまつる方法)・巫術(降霊術)などがふくまれています。

 現代の感覚だと、医術と祭儀だったり卜筮うらないが一つにふくまれているってなかなか分かりづらいかもなので、すごく面白い(と私が思い込んでいる)話をひとつ載せてみます。

鄭国には神巫季咸というのがいて、人の生死や寿命を当てるのが神のごとくして、列子はこれに会って心酔して帰ってきた。

そして、師匠の壺子に云った。「わたしは先生の道こそ至高のものと思っておりましたが、もっと上がおりました」

壺子は「私はおまえに上っ面の技は教えたが、まだ本当のわざをみせていないのに、もう道を悟った気でいるのか?そもそも、そんな生悟りの道で世にみせつけようとするから、かえって騙されて帰ってくるのだ。明日、その者を連れてきてみなさい」と云った。

つぎの日、列子は季咸をつれてくると、季咸は「あぁ、あなたの先生は死が近い。十日もせずに亡くなるだろう。こんなに湿った灰のような人は初めて見た」と云っていた。

列子が入って告げると、壺子は「これは“地文のすがた”というもので、ひっそりとしてすべての動きを閉ざしていたのだ。さて、明日も連れて来い」と云っていた。

つぎの日、また壺子をみせてみると、「良かったですね、あなたの先生は――。良くなってきています、どうやら生きられるでしょう」というので、それを壺子に告げると「今日みせてやったのは“天壌あめつちの分かれ”というものだ。まだ物事は起らぬが、生気が立ちのぼり、よってよくなっているのがみえたのだろう。明日も連れてこい」と云っていた。

さらにつぎの日、季咸は「あなたの先生はどうにも分からない。もう少し気が落ち着いてからみせていただきたい」と云って帰ってしまった。

列子がこの話をすると、壺子は「これは“太沖莫勝わけのわからぬまだら模様”というので、何がみえているのかも分からなかったのだろう。鯢桓どろどろと回る淵、止まっている淵、流れつつある淵の三つをいままでみせたが、全部で九つの淵があるから、明日はまた別のをみせてやろう」と云っていた。

つぎの日、壺子を占わせてみると、季咸は目の前に立つそばから、自失ふらふらとして逃げていった。壺子は「やつを逃がすな」と云ったので、列子が追いかけたが間に合わず、もどってきて「すみません、見失ってしまいました」というと、壺子は「今日みせてやったのは“未始出吾宗よろづのはじめというものだ。この虚而委蛇うようよとながれて、もはや何もみえず、弟靡どろどろと瀾ばかりで、ついに耐えられなくなって逃げたのだろう」と云っていた。

鄭有神巫曰季咸、知人之生死存亡、禍福寿夭、期以歳月旬日、若神。……列子見之而心酔、帰以告壺子曰「始吾以夫子之道為至矣、則又有至焉者矣。」壺子曰「吾與汝既其文、未既其実、而固得道與?……以道與世亢必信、夫故使人得而相女。嘗試與来、以予示之。」明日、列子與之見壺子。出而謂列子曰「嘻。子之先生死矣、弗活矣、不以旬数矣。吾見怪焉、見湿灰焉。」列子入、泣涕沾襟、以告壺子。壺子曰「郷吾示之以地文、萌乎不震不正。是殆見吾杜德機也。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。出而謂列子曰「幸矣。子之先生遇我也。有瘳矣、全然有生矣。」……列子入、以告壺子。壺子曰「郷吾示之以天壌、名実不入、而機発於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。出而謂列子曰「子之先生不斉、吾無得而相焉。試斉、且復相之。」列子入、以告壺子。壺子曰「吾郷示之以太沖莫勝。是殆見吾衡気機也。鯢桓之審為淵、止水之審為淵、流水之審為淵。淵有九名、此処三焉。嘗又與来。」明日、又與之見壺子。立未定、自失而走。壺子曰「追之。」列子追之不及、反以報壺子、曰「已滅矣、已失矣、吾弗及也。」壺子曰「郷吾示之以未始出吾宗。吾與之虚而委蛇、不知其誰何、因以為弟靡、因以為波流、故逃也。」(『荘子』応帝王篇)」

 これ、めっちゃ面白くないですか(笑)

 ちなみに、これと同じ話が『列子』黄帝篇にも載っているのですが、そこでは淵の名前が「鯢旋之潘・止水之潘・流水之潘・濫水之潘・沃水之潘・氿水之潘・雍水之潘・汧水之潘・肥水之潘(潘・審は、いずれもうずまく)」とされています。

「鯢旋・止水・流水」は『荘子』にもあるのですが、その他は「濫水」ってあふれる水、「沃水」はゆたかな水、「氿水」は山の横からあふれる水、「雍水」は穏やかな水、「汧水」は静かな水、「肥水」は内にたっぷりたくわえた水――みたいになっています。

 これって、なんとなく「止水」は真冬、「流水」は早春、「濫水」は春爛漫、「沃水」は初夏の梅雨時、「氿水」は真夏の大雨、「雍水」は初秋の澄んだ水、「汧水」はしだいに水の減った川、「肥水」は晩秋~初冬の淀んだ川なのかもです。

 そして、「鯢桓(鯢旋)」が「どろどろと回る季節の巡りのような淵」だとすれば、たぶん多くの季節の真ん中みたいなところにあって、八方&中央みたいになっていそうです(さらに「未始出吾宗よろづのはじめ」の姿は、その九つの淵になる前かもです)

 これが、たぶん先秦~漢代あたりの「術(医術・方伎・卜筮うらない)」の雰囲気らしいです。そして、この術は、真ん中にどろどろとして渦巻く不気味な淵を置くようにしてつくられています(どうでもいいけど、壺子って、淵を入れる壺っていうことなのかも笑)

 この真ん中に混然どろりとした淵みたいなものがある形って、実はさっきの「芸」のほうでも、たとえば書を評するときによく出てくるんですよね。たとえば、こんな感じです。

後漢の蔡邕さいようが云っていた「筆がやわらかければ、奇怪ふしぎな趣きがある」というのは、どうやら“やわらかければ”だけ云っているのをみると、おそらく硬軟自在なことを云っていて、ただふにゃふにゃと柔らかいことではないらしい。

蔡中郎云「筆軟則奇怪生焉。」余按此一「軟」字有独而無対、蓋能柔能剛之謂軟、非有柔無剛之謂軟也。(清・劉熙載『芸概』巻五「書概」)

 これも、硬さと柔らかさの間をぐにゅぐにゅと行き来する様子を、硬いのか柔らかいのかわからない「奇怪ふしぎな趣き」としています。ちなみに、この硬軟自在な書って、たぶんこういう感じかもです(こちらの「西岳華山廟碑」への評も合わせてみていきます)

漢代の隷書は、だいたい三タイプがあって、一つめは方整きちんとしている系、二つめは流麗さらさらなめらか系、三つめは奇古ふるめかしい系とされている。もっとも、こちらの「西岳華山廟碑」だけは、きちんとしているような崩れているような多彩な趣きを含んでいて、この三つを兼ねているゆえ、最大の名品だろう。

漢隷凡三種、一種方整……、一種流麗……、一種奇古……、惟「延熹華岳碑」、正変乖合、靡所不有、兼三者之長、当為漢隷第一品。(清・朱彝尊『曝書亭集』巻四十七)

 これは三つの雰囲気を兼ねている「正変乖合、靡所不有ぐにょぐにょとぶきみ」な味わいです。これの不思議なところは、真ん中にある渾沌として不気味な作風から、あるときは二つ(硬軟)に分かれて、あるときは三つ(方整・流麗・奇古)になっています。

 なので、別に作風は、二通り+真ん中の渾沌だったり、三タイプ+真ん中の渾沌だけでなく、もっと不規則に分かれていても全然いいことになります(あと、すごく余談だけど、こちらの華山という山は、ふしぎな民間伝承がすごくたくさんあります)

金波嫋々

 さっきは書で喩えましたが、日本の芸道(室町期あたりの能楽・和歌・茶など)でも、毎回異なっていくふしぎな様子をいろいろな喩え方をしています。ここでは、能楽家の金春禅竹(世阿弥の娘婿)が用いた喩えをみていきます。

 禅竹は、演じ方の雰囲気などを和歌で喩えています(この感覚が、すごく唐の司空図「二十四詩品」に似ている)

 たとえば、ほとんど同時代の役者たちについては

犬王太夫:この人は近江のものだが、ひめやかにしてやさしく、俗に染まらず、はらはらと立ち騒いで、儚く匂いや色があふれていて、「見わたせば柳桜をこきまぜて都は春のにしきなりけり」のような感がある。

観阿弥(世阿弥の父):山河をくつがえすばかりの勢いありて、ただ粗いのではなく、むしろ穏やかにして夏の日のぬらぬらと照れる姿に似ており、「行き悩む牛のあゆみに立つ塵の風さえ暑き夏の小車」のような力がある。

のように評しています(どちらも『歌舞髄脳記』より)

 ですが、さらに役柄ごとにも、こんなふうになっています。

軍体もののふ:もののふの矢並やなみ繕う小手のうえにあられたばしる那須の塩原

山姥やまうば:山里は世の憂きよりも住みわびぬ ことの外なる峯のあらしに(この山姥やまうばというのは、恐しい人にみえて、実はやや寂しげな心をふくんでいて「この頃は木々の梢も紅葉して鹿こそは鳴け 秋の山里」みたいなところがある)

歌占うたうらない:箱根路を我越え来れば伊豆のうみや 沖の小島に浪の寄る見ゆ(いずれも『歌舞髄脳記』)

 山姥がどこか山暮らしのわびしさをたたえていたり、歌占うたうらないが箱根路の山々からでてみればやはり海の浪ばかり――みたいな喩え方がすごくおしゃれです。さらに、禅竹は、演じる曲ごとの雰囲気も分けています。

祝言第一 治世安楽体
安らかな世の楽しげな様子。年の始めの挨拶に「千秋万歳、目出あけましておめでとう」というような雰囲気。
「春日野に若菜つみつつ萬代よろづよを祝うこころは神ぞ知るらん」のごとく正直すなおな。

幽玄第二 廻雪体
華やかにして、冷えさびた余韻をふくませた姿で「風吹けばよそに鳴海のかたおもい思わぬ浪に鳴く千鳥かな」の秘めた様子。

幽玄第五 有心体
心深く、真切な想いがにほひやかに洩れたようで「津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり」のような静かな彩りが浮かぶような――(いずれも『五音三曲集』より)

 これは、能楽が「祝言(儀礼的な演目)」だったり「幽玄( 幽冷ひめやかな華やぎがある様子。『新古今集』以来の中世和歌の味わい)」みたいな時代や様式らしさを帯びていて、きれいに硬軟だったり季節みたいに分かれていないので、かなり不規則な形です。

「治世安楽体」は、まるで新年の挨拶のごとく安らかな雰囲気、「廻雪体」は幽玄のなかでもやや冷えさびた感じが濃い雰囲気、「有心体」は幽玄のなかでもねっとりと想いがあふれた感じがする――みたいな違いらしいです。こんなふうに、理論よりも実際の様子を重んじると、かなり不規則な分け方になるのですが、禅竹はさらに老成した技芸をふたつに分けています。

カン:みやびやかで静かに老成して、吉野・大原などの名木の、年を重ねて枝が少なくなって、わずかに花を咲かせているところに微雨のふるような。

ラン:松杉が、山風や塩風に揉まれて、しおれて、枝葉もそげげて禿かぶろ木になっている姿。もとはしずかなものが、仮りに荒れた姿になるのは、むしろ凄き趣きがある。

 なんとなくですが、老いて穏やかな芸風になるのが閑、老いて奇怪だけど成り立っている芸風なのが闌ですかね……。ちなみに、闌はさらに二つに分かれます。

闌曲第一 拉鬼おにひしぎ
ぬれて干す玉くしの葉の露霜に天照る光 幾代経ぬらむ

闌曲第二 若声体
鶯よどさは鳴くぞやほしき粉餌こなえやほしき母や恋しき

「拉鬼体(鬼すらねじり殺す)」では物凄まじい崩れ方、「若声体」ではほろほろと物悲しい崩れ方――みたいな雰囲気です。このがさがさと荒れた老木のなかで硬軟が分かれたり、祝言みたいな様式や、幽玄みたいな時代の好みにあわせて、いくつもの淵が分かれていく感じが、すごく実際の物事に応じて、ぐにゃぐにゃと形が変わっていく『荘子』的な未整理にして複雑な世界だなぁ……とか思います。

(閑・闌については『歌舞髄脳記』『五音三曲集』『至道要妙』あたりを混ぜるようにしてまとめました。禅竹は「静かなものがひととき荒れるのは、静かなときよりも目を驚かす」と云っているので、どうやら闌は“閑から派生した奇品”というニュアンスがありそうです)

晩年の枯れ 「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。  こちらの記事では、「晩年の枯れた作風」ということについてです。これって...

 というわけで、かなり異様な話題になりましたが、渾沌とした技芸をきわめて、霊薬玉瑛を飲みて、神前にて游べば、風ばかりの廣殿に立ちて、遠くに環佩たまかざりの揺聲をわずかに聞くのみ――みたいな雰囲気が少しでも出ていたら嬉しいです。

 お読みいただきありがとうございました(どうでもいいけど、禅竹って、大学のころにすごく好きだったんですよね。今もふつうに好きだけど)

ABOUT ME
ぬぃ
こちらでは、中国文学のやや深く狭めな話をのせていきます(もっと分かりやすい話は、下のリンク先にあります♪)

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA