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こちらの記事では、白鳳(藤原京時代)~平安初期の詔勅についてみていきます。この時期の詔勅って、すごく文化や時代の雰囲気などがどのように変わっていたかがみえて、とても興味深いものが多いので、そういう方面で紹介していきたいとおもいます。
というわけで、さっそくみていきます(ちなみに、姉妹編はこちら)
白鳳期
まずは、白鳳期のものをみていきます。
南淵山・細川山などでは、蒭薪を採るのを禁じる。また畿内の山野では、むかしから禁じてきたところでは、勝手に木を切らないように。
天下の者は、みな桑・紵・梨・栗・蕪菁などを植えて、米などが取れないときの代わりにするように。
禁南淵山・細川山、並莫蒭薪。又畿内山野、元所禁之限、莫妄焼折。(『日本書紀』天武天皇5年)
令天下、勧殖桑・紵・梨・栗・蕪菁等草木。以助五穀。(『日本書紀』持統天皇7年)
……とても素朴です。まるで野山のなかの小国のようなほっこりした感もどこかあります……。ちなみに、この自然がすごく身近な雰囲気は、こちらに似ているかもです。
川衡:川澤の禁令をつかさどり、それを破ったものは執えて罰する。祭祀・賓客などがあれば、川の奠物を出す。
稲人:潴で水をたくわえ、防で水をとめて、溝で水を蕩し、遂で水をわけて、澮で水を出す。
川衡:掌巡川澤之禁令……犯禁者、執而誅罰之。祭祀・賓客、共川奠。
稲人:以潴畜水、以防止水、以溝蕩水、以遂均水、以澮寫水。(『周礼』地官より川衡・稲人)
こちらは、中国先秦期の『周礼』(周代の官制の想定)です。周礼って、どこか土の香りがするというか、田舎の風物を実際にみている感があります。とくに「川の供え物(川奠)」「澮(田んぼからの排水路)」なんて、大国の宮中ではほとんど出てこない語彙じゃないですか♪
さきほどの天武天皇・持統天皇も、「畿内の山の木は、勝手に切ってはならない」「梨・蕪なども植えておくように――」って、どこかかわいい趣きすらあるような気がします。もう一つ、持統天皇の詔勅をみてみます。
此の夏は陰雨が降りすぎで、必ずや稼を弱らせることになるだろう。夕ごとに惕れて朝まで憂懼めども、この思いはどうやら届かないらしく、公卿・百官らは、みな酒や肉を絶ちて、心をひそめて祈り、畿内のそれぞれの寺では、五日にわたり経を誦げて、この陰雨をしずめるように。
此夏陰雨過節、懼必傷稼。夕惕迄朝憂懼、思念厥愆。其令公卿・百寮人等、禁断酒・宍、摂心悔過。京及畿内諸寺梵衆、亦當五日誦経、庶有補焉。(『日本書紀』持統天皇5年)
こちらは、実はのちほど出す後漢の詔勅とかなり似ているところもあるのですが、持統天皇の詔勅って、すごく神々の祟りなどで止まない雨がふっている――みたいな雰囲気があります。
なんとなくですが、こちらの「夕ごとに怖れて朝まで悩めども、この思いは届かないらしく(夕惕迄朝憂懼、思念厥愆)」って、どこか巫術の女王みたいじゃないですか……。仏教は入ってきていても、やや不気味な自然信仰みたいな感性が残っているのが、白鳳期なのかもです。
ちなみに、この祭儀でできている国――というのも、すごく『周礼』に似ているかもです(『周礼』の官制って、祭儀のためにある雰囲気が漂っているというか)
九嬪:祭祀のときは、玉・粢のことなどを賛けて、后が豆籩を薦め徹べるのを賛ける。
九嬪:……凡祭祀、賛玉粢、賛后薦徹豆籩。(『周礼』天官・九嬪)
天平期
つづいては、天平期(平城京時代)です。まずは聖武天皇をみていきます。
朕は薄徳ながらも、この大位を継いでしまい、それでも志はみなを兼済い、人物を勤撫じることにあり、遠くの濱と云えども、仁恕ること久しくして、それでも天下の人は、まだ法恩を受けずして、いよいよ三宝の威霊をかりて、乾坤を安んじ、萬代の福業を始めて、動植をそれぞれ栄えさせたいとおもう。
ゆえに天平十五年、この大願を発して盧舎那仏をひとつ作りて、国中の銅を用いて一像を出だし、大山を削りて堂を構りたい――。天下の富をもっているのは朕にして、天下の権を握っているのも朕なのだから、この富と権を以てすれば、金銅の盧舎那仏をつくることもたやすいだろう。しかし、それでは心が足りない。ゆえにもし人々でわずか一木一草一土ばかりでもこの像のために捧げたいと思うものがいたら、みな惜しまずに力を借してほしい――。
朕以薄徳、恭承大位、志存兼済、勤撫人物。雖率土之濱、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰、修萬代之福業、動植咸栄。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舎那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象、削大山以構堂。……夫有天下之富者朕也、有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像、事也易成心也難至。……如更有人情願持一枝草一把土助造像者、恣聴之。(『続日本紀』聖武天皇 天平15年)
この詔勅、有名だけど、かなり好きなのですよね……(この泣かせる駢文って、じつは中国でもかなりめずらしいというか)
まず、さきほどの持統天皇の詔勅はやや巫術の女王らしさもありましたが、こちらでは「わたしは頼りなきながらも大位を継いでしまい、それでも心は世を安らかに治めて、人々を喜ばせることにあり――(朕以薄徳、恭承大位、志存兼済、勤撫人物)」みたいに、やや自然の神々からは離れています。
そして、これがすごく天平期らしいのですが、「もし一木一草一土だけでもこの像のために捧げられる人がいたら、みな惜しまず協力してほしい(如更有人情願持一枝草一把土助造像者、恣聴之)」のような、国を大きくまとめているようなおおらかさがあるというか(逆に白鳳期はもっと小さいような)
ちなみに、「なるべく遠い国まで、その徳を行き渡らせて――(率土之濱、已霑仁恕)」というのは、漢代頃にうまれた詔勅の定型句です。
今年はよく稔ったと云うが、その収穫る前にして、連日の雨がふり、その淹傷すことを懼れて、夕べに憂いて思い悩み、どうやらこの咎を想いやるに、おそらく人の怨みがおこす霖雨におもわれる。
武吏たちが暴いことをしたり、文吏たちが苛刻く人をとがめたり、郷吏が悪事をはたらいたりすると、みな民たちの怨むことになり、天はおそらくこれを罰しているのだろう。ゆえにみな仁恕に治めて、寡独はよく援け起して、朕が意にかなうようにせよ。今年秋稼茂好、垂可収穫、而連雨未霽、懼必淹傷。夕惕惟憂、思念厥咎。夫霖雨者、人怨之所致。其武吏以威暴下、文吏妄行苛刻、郷吏因公生姦、為百姓所患苦者、有司顕明其罰。……其務崇仁恕、賑護寡独、称朕意焉。(『後漢書』巻5 安帝 元初四年)
こちらは、あえて持統天皇と聖武天皇にそれぞれ似ているところを塗りわけてみたのですが、持統天皇はほとんど同じ句を入れながらも、祭儀で補うことになっています。
一方で、聖武天皇は盧舎那仏の威霊も借りながら、「願うところは世を安んじて、人々を勤撫がせることで(志存兼済、勤撫人物)」のようにやはりみずからの政で世を安んじることも大事にしています。
つづいては、聖武天皇の娘だった称徳天皇をみていきます。
畿内と七道の諸国では、一七日間にわたりて、各々 国分寺に於いて吉祥天法をおこなうように。この功徳に因りて、天下太平にして、風雨も違わず、五穀も穣かにして、兆民も快楽みて、十方の有情は、みなこの福を霑けることを願う。
畿内七道諸国、一七日間、各於国分金光明寺、行吉祥天悔過之法。因此功徳、天下太平、風雨順時、五穀成熟、兆民快楽。十方有情、同霑此福。(『続日本紀』称徳天皇 神護景雲元年)
「この功徳に因って、十方の心は、みなこの福を受けることを願う(因此功徳、……十方有情、同霑此福)」というのが、すごく独特です。なんとなくのイメージですが、日本ではさきほどの「徳を行き渡らせる」と仏教がふしぎな混ざり方をしているというか(さきほどの聖武天皇もやや近いものがあります)
中国ではあまり仏教がこういう場面で出てこない気がします(すごくなんとなくの印象ですが)
あと、称徳天皇の詔勅は、どこか則天武后の色彩感に似ています。
皇太子第八女の楽安郡主は、銀榜に承かれて、銅楼に毓ちて、宝婺の釵は暉々として、瓊娥の領巾を艶せたり。貞明として婦言婦容を好みて、窈窕として婦德婦功を違わず。もとより儀範の不愆して、柔閑にして有裕なり。
皇太子第八女楽安郡主、承規銀榜、毓彩銅楼、宝婺連暉、瓊娥比艶。貞明発於閫訓、窈窕斉於国風。固已儀範不愆、柔閑有裕。……(則天武后「楽安郡主出降制」)
もはや訳とかは雰囲気だけでいいのですが、さきほどの称徳天皇も「天下もおだやかにして、風雨ゆるかに違わず、五穀もとりどりに豊かなり(天下太平、風雨順時、五穀成熟)」のように、かなり雨雲の五色がひらひらと舞うような色があります。
そして、則天武后も「銀の榜(額)に承かれて、銅楼にうまれて、星色の釵はひらひらとして、翠白の絹は艶れたり(承規銀榜、毓彩銅楼、宝婺連暉、瓊娥比艶)」みたいに、五色のガラスがひらひらとゆれるような色をしているみたいな雰囲気です(この瑞祥まみれな煌々かさが、とても綺麗です)
平安初期
というわけで、いよいよ平安初期です。なんとなくの勝手なイメージですが、天平期って大仰で熱いというか、平安初期ってひんやりと冷静――みたいな、詔勅にもそういう雰囲気が出ているかもです。
官員が多すぎると政は黷れ、官員が少すぎると事は稽り、昔 諸司百寮たちは、劇かったり閑だったりがあったゆえ、資俸などもさまざまに異なっていたが、今はすでに官制も改りて、それなのに賞賜は旧のとおりで、今 劇しくなった官については馬料時服公廨も、多く改めるべきである。
水陸の利は、公私で分け合うべきものなのに、早く捕りすぎてしまうと、よく繁育ぬうちになくなってしまう。ちかごろ、よく小さい魚も取ってしまうと云い、小さい魚は多く得たとしても、あまり得る物がなく、山城・大和・河内・摂津・近江などの諸国では、禁令に従わせるべきである。もっとも、四月より後は、小さい魚も捕ってよいこととする。
官多則政黷、人少則事稽。……昔諸司百寮、有閑有劇、是以資俸賞賜、或厚或薄。今官既従改、賞何依旧。宜要劇馬料時服公廨、悉革前例。(『日本後紀』平城天皇 大同3年)
水陸之利、公私所倶。捕之不時、物無繁育。如今、百姓好捕小年魚、雖所獲多、於物無用。宜仰山城大和河内摂津近江等諸国、令加禁断。唯四月以後、不在禁限。(『日本後紀』嵯峨天皇 弘仁5年」)
すごく大まかな印象ですが、天平期って「国中の人々をあつめて盧舎那仏をつくろう――」「国中にて吉祥天法をおこなう」みたいな大きくまとめあげていく雰囲気があるのですが、平安初期って「官員の費用は忙しさに応じてわけよ」「小魚はなるべく取らないように」みたいに、かなり実際の状況にあわせた歪みと整備――みたいになっているかもです。
あと、嵯峨天皇の出した小魚についての禁令もなのですが、内容としては白鳳期の持統天皇などに似ているけど、かならず「よく諸国に仰わせて、禁制を出だす(宜仰……諸国、令加禁断)」みたいに、平安初期は「諸国」などの官制を挟んでいるかもです。
これが白鳳期の自然と隣りあっていたほんのり感から、しだいに落ち着いて静かな平安初期――という違いなのかもです。なんていうか、白鳳期はまだ詔勅が野のなかをみて草られていて、平安初期では宮中でつくられているみたいな。
(ちなみにですが、平安遷都をした桓武天皇の詔勅は、どこか隋の煬帝みたいな雰囲気をおびている気がします)
あと、やや話がそれるけど、じつは平安初期ふうの詔勅は、桓武天皇の先代だった光仁天皇から少しずつみえています。
このごろ風雨がつづいて、飢荒もよくつづき、この禍を逃れるためには、冥助を憑るしかないゆえに、諸国の国分寺に於いて、毎年正月の一七日間にわたり、吉祥天法を行ない、恒例ものとする。
頃者風雨不調、頻年飢荒。欲救此禍、唯憑冥助。宜於天下諸国国分寺、毎年正月一七日之間、行吉祥悔過、以為恒例。(『続日本紀』光仁天皇 宝亀3年)
この「恒例(毎年変わらず行う)」というのが、毎回の詔勅ごとに天皇の息づかいがみえていたような白鳳~天平期までの詔勅との違いみたいな……。
というわけで、白鳳~平安初期までの詔勅で、しだいに自然信仰の巫術らしさから、大がかりな天平期、さらに官制・法制が整えられていく平安初期――みたいな流れがありそうです(そして、白鳳・天平期までは天皇ひとりの想いがややみえるみたいな)
すごく狭い話題になりましたが、お読みいただきありがとうございました。