「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。
こちらでは、かなりお倉入り寄りの話をのせていきます。具体的には、実は上田秋成『春雨物語』の記事をたくさん出してきて思ったのですが、『春雨物語』の中でも平城天皇はすごく謎が多くて、とりあえずなんとなくの雑感だけをまとめてみます(なので、しっかりとしたまとまりのある話ではないです……)
張貴妃と藤原薬子
まず、平城天皇といえば、わずか四年ほどで弟の嵯峨天皇に譲位してしまうのですが、しばらく平城京にいた後に、ふたたび皇位を取り戻そうとして、側近(尚侍)の藤原薬子に吹きこまれて“薬子の変”を起こして――という語られ方をされることが多いです。
もっとも、薬子についてもよく分からないという印象なのですが……。
薬子の長女が、平城天皇がまだ皇太子だったときに妃に選ばれて、薬子もあわせて皇太子の後宮での女官長になったが、平城天皇はむしろ薬子と仲が深くなってしまった。
父の桓武天皇は、その婬之傷義を怒りて、薬子を駈逐うが、平城天皇は即位すると、薬子を呼びもどした。薬子は平城天皇に巧求愛媚、その寵愛も隆渥くて、薬子のいうことはすべて聞き入れられていた。
さらに百官の衆務なども、思うがままになっていて、その威福は、四方を熏灼かすほどだった。薬子の変のときに、ひとたび東国に逃げようとしたときは、平城天皇と同じ輦に乗っていたが、しだいに悪名がすべてみずからに押しつけられたのを知って、毒を飲んで自害した。
薬子……長女、太上天皇為太子時、以選入宮。其後薬子以東宮宣旨出入臥内、天皇私焉。皇統弥照天皇慮婬之傷義、即令駈逐。天皇之嗣位、徴為尚侍。巧求愛媚、恩寵隆渥。所言之事、無不聴容。百司衆務、吐納自由。威福之盛、熏灼四方。属倉卒之際、與天皇同輦。知衆悪之帰己、遂仰薬而死。(『日本後紀』巻20)
これをみると、かなりの悪徳皇妃みたいな印象があるけど、じつはかなり六朝の陳末期の張貴妃にかなり似ているかもです(かなり長いけど、これでもかなり略した)
張貴妃は、貧しい家の生まれで、家業では蒲坐を編んでいた。陳の皇太子の後宮に入り、龔妃の侍女として、十歳から仕え始めたが、皇太子から好まれて、皇帝になったのちに貴妃の位になった。
聡恵くて、とりわけ寵遇れて、毎度 張貴妃をつれて宴席について、臨春閣・結綺閣・望仙閣などは、みな窓牖・壁帯・懸楣・欄杆などはみな白檀などでつくられ、さらに金石の飾りを嵌め込んで、翡翠などを間らして、さらに服や手玩の属なども、みな瑰奇珍麗だった。
後宮には、ほかにも王氏・李氏、張・薛の二淑媛、袁昭儀・何婕妤・江修容などの七人がいずれも寵まれて、たびたびその楼の上に侍り、ともに詩を出だしては、もっとも艶麗きものを撰んで、新曲にかさねて歌われていたが、張貴妃は楼上にて粧ひを靚え、軒檻に臨めば、その優美な飄若は仙女のようだった。
このとき皇帝は政事は怠荒だったので、百官の啓奏などは、みな張貴妃が條疏て、遺脱なども無く、いよいよ皇帝の寵厚くして、後宮にも並ぶものはいなかった。なので後宮に連なる家々は、裏で張貴妃に訴えを通したり、人を譖させたりして、それらはすべて聞き入れられ、張貴妃の光は、四方を薰灼かす如きだった。
さらに厭魅之術を好んでいて、鬼道で皇帝を惑かし、淫祀を宮中に置いて、妖巫などをひらひらと舞わせていた。隋がせまってきて南京が囲まれたときには、貴妃は皇帝といっしょに井戸のなかに隠れていたが、ついにみつけられて、隋の煬帝は青渓中橋で斬らせた(皇帝は生き残ったが)
張貴妃、名麗華……家貧、父兄以織席為事。後主為太子、以選入宮。是時龔貴嬪為良娣、貴妃年十歳、為之給使、後主見而説焉。……後主即位、拝為貴妃。性聡恵、甚被寵遇。後主每引貴妃與賓客遊宴……臨春・結綺・望仙三閣……窓牖・壁帯・懸楣・欄檻……並以沈檀香木為之、又飾以金玉、間以珠翠、……其服玩之属、瑰奇珍麗。……又有王李二美人、張薛二淑媛、袁昭儀・何婕妤・江修容等七人並有寵、逓代以遊其上。……共賦新詩、……採其尤艶麗者……被以新声。……張貴妃……於閣上靚粧、臨于軒檻……飄若神仙。……是時後主怠於政事、百司啓奏、……貴妃並為條疏、無所遺脱。由是益加寵異、冠絶後庭。而後宮之家、……求哀於貴妃……亦因而譖之、所言無不聴。於是張孔之勢、薰灼四方。……又好厭魅之術、假鬼道以惑後主、置淫祀於宮中、聚諸妖巫使之鼓舞。……及隋軍陷台城、妃與後主俱入於井、隋軍出之、晋王広命斬貴妃、榜於青渓中橋。(『陳書』巻7より、順序を変えてます)
まず、色をつけた「薰灼四方(四方を照り耀かす)」だったり「無不聴容・所言無不聴(なんでも聞き入れられる)」などがほとんど同じです。さらに、もともとはふつうの女官として入ったこと・百官への條疏の取り次ぎ(薬子も尚侍として、詔勅や申し出を取り次いでいた)・井戸や輦に一緒に入るところなども重なります。
もっとも、薬子の話がすべて張貴妃をモデルにした作り事――というより、たまたま似ていたので同じようなところが出てしまった……というのが近いかもですが……。
ちなみに、かなり興味深いのは、張貴妃のほうでは「みな窓・壁かざり・楣かざり・欄杆などは白檀でつくられ……」みたいにあるのですが、薬子が浪費をして……みたいな記事って、ひとつも無いし、悪政を吹きこんでいるわりには、平城天皇期には倹約令ばかり出ているのがふしぎというか。
ちかごろ、位ごとに与える田が、或るところでは埋まって川になっていたり、或るところでは荒れて使いものにならないと聞く。それらの田は、位ごとに与えているのだから、諸国の国司は、みな田の数をしらべるときは、そこまで細かくみて、数だけかぞえて終わらせないように。
川が溢れるときは、微かなことが重なって害を招く。もし小さい溢れで止められれば、わずか一簣の土で足りるのだが、よく監ている人がいない故に、多壊れることになっている。衛門・衛士府(都の警固係)ではみな京のまわりの堤をよくみて、随時 修補していくように。
諸国から采女(雑事をこなす宮女)を采るのを止める。もうすでに仕えているもの三十二人をのこして、亡くなるまでずっと仕えさせればよい。また、もし五位以上になったり、別の業をするようになったものは、采女から外れることにする。
比年之間、……所給位田、或崩埋成川、或荒廃不堪為位田者。夫位田之設、為優其主。若所在国司、自今以後、校田之日、細校令申、不得更然。
水之浸損、積微為害。属于小决、功在一簣。而無人監修、致此多壊。宜衛門衛士府専當左右京堤溝、勤加修補。
停諸国貢采女。唯択留其年老有労者卅二人、任旧終身。若叙五位已上及補雑色者、即除采女名。(いずれも『日本後紀』巻15・14・16より)
いずれも「今あるものをしっかり整備して用いよ」「余計な人員を用いずに小さく回すように」系の話ばかりです……。先代の桓武天皇は、平安遷都もふくめてかなり疲弊させる面があったので、平城天皇はまるで真逆の路線です。
ちなみに、桓武天皇は鷹狩、つぎの嵯峨天皇は詩宴をたびたびしているけど、平城天皇はほとんどそういう遊びもしません……。
あと、平城天皇って、「それぞれの国司は田の様子などをしっかり川に埋まっていないか調べよ」「都の警固をしつつ、堤がくずれていないかみておくように」みたいな、妙なアナログ感があるんですよね(官制を通しているけど、やはり最後は目でみるみたいな)
厭魅之術
ところで、張貴妃でかなり印象的なのは、「貴妃はあやしい呪いを好んでいて、奇怪な祠や神像をおいて、さらに妖巫などがたくさん宮中で侍ってしゃらしゃらと鈴などを奏でていた(好厭魅之術、……置淫祀於宮中、聚諸妖巫使之鼓舞)」です。
薬子がそういうものを用いたという記事はないけど、じつは秋成が『春雨物語』で「宵々の御宴の歌垣で、八重めぐらせ遊ばせたまふ……。御土器取らせたまえば、薬子 扇取りて立舞う。三輪の殿の神の戸をおし開かすもよ。幾久々を袖かえして祝ぎたいまつる」みたいにあります。
まぁ、似ているといえば似ているけど、張貴妃はあやしい呪い扱いで、薬子はまるで神代のようで――って、かなり違くないですか……。
たぶんですが、中国で淫祀が用いられていたのが、おそらく戦国期の楚(楚辞)・燕斉(方士の祭儀)とかで、それ以降もかなり田舎のほうでは残っているけど、宮中ではとても異様だったというか、非貴族うまれの張貴妃は小さいころからそれをみていたみたいな……(強いていうなら、かなり古めかしい感性があったというか)
逆に、薬子(おそらく700s中頃うまれ)は、まだまだ自然の霊だったり呪物信仰などが残っている雰囲気が身近だったので、神代のごとくひらひらと明るげに祝ぎて――みたいに云われているのかもです。
もっとも、これだけだと平城天皇期はかなりの復古趣味みたいに思うかもですが、じつはしだいに冷静な感もあるんですよね……。
巫覡などが、禍福のことを売りものにして、庸愚輩がそのような妖言を信じて、淫祀っているという。今後は、そのような妖しい祭祀などはすべて禁ずる。
ちかごろ『和漢聖帝譜』などという物をみたが、天之御中主神を上帝にかさねて、魯王・呉王・高句麗王・漢の皇帝などは、みなその後裔だと云っており、和漢を雑糅にして、天を垢すくだらぬ書で、愚かな者はだまされて、ほんとうのことだと思っている。諸々の官人たちはそのような書はみな差し出して、もし匿したままになっていたら、みつかったときには重く罰する。
ちかごろ、秋の節会の雑楽伎人では、いままでの例をやぶって唐物飾りがつけられているというが、以後はつけないように。
巫覡之徒、好説禍福、庸愚之輩、深信妖言、淫祀斯繁。自今以後、一切禁断。
倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輒謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進、若有挟情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。
如聞、大嘗会之雑楽伎人等、専乖朝憲、以唐物為飾。……宜重加禁断、不得許容。(いずれも『日本後紀』巻16、17、17より)
和漢をごたまぜにしたようなくだらぬトンデモ本は捨てさせよ、妖しい巫覡は信じないように、むりな唐物化はしなくていい――みたいに、すごく醒めているところがあります。
ちなみに、さきほど平城天皇の詔勅は、どこかそれぞれ最後は目でみずからみる……みたいなアナログ感があると云いましたが、実はこのアナログ感って白鳳期(藤原京時代)によく似ているんですよね。もっと云うと、小国としてみずから見られる時期しかできないスタイルというか。
諸々の官人たち・畿内で官位をもらった者などは、みな四孟月(一・四・七・十月)に、必ず京まであいさつに来るように。もし死病などで来られないときは、かならず官を通して伝えよ。
秋の七月には、広瀬・龍田の神を祀った(注:龍田山には風神、いくつもの川が合わさる広瀬は水神がいるとされてます)
粤若、この朱鳥七年にて、醴泉が近江国益須郡にて涌きだして、諸々の病人などはみな益須寺に泊まらせて、よく療瘥させるようにしたが、あまりにも多すぎたゆえ水田四町・布六十端を寺に与えて、今年の郡内での布税・労役などは無くすことにする。
諸文武官人及畿内有位人等、四孟月、必朝参。若有死病、不得集者、當司具記申送法官。
秋七月……祭広瀬・龍田神。
粤以七年歳次癸巳、醴泉涌於近江国益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺、而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役・雑徭。(いずれも『日本書紀』天武天皇12年、天武天皇14年、持統天皇8年)
……年四回のあいさつって、実際にするのはかなり大変じゃないですか(笑)あと、広瀬・龍田で風神・水神を祀る――というのも、わずかに藤原京のまわりだけで全国の風雨を祈る――みたいになっていて、すごく小規模です(かわいい)
さらに三つめの「粤以」もすごくいいです。ふつう、中国ではこの「粤以」ってほとんど形式化してありがちな擬古調詔勅の定型句ですが、持統天皇はこの詔勅でめずらしく用いていて、形では「あぁ」だけど、実際は無理やり「粤以」で「あぁ、ありがたや――」みたいなニュアンスを入れているのかもです。
ちなみに、この時期の雰囲気って、なんとなく『周礼』(戦国期ごろにつくられた周代官制記)になんとなく似ているんですよね。
畿内は千里四方とする。そこから五百里を侯服といい、年一回、祀物を届ける。そこから五百里を甸服といい、二年に一回、妃嬪の飾り物を届ける。そこから五百里を男服といい、三年に一回、器物を届ける。そこから五百里を采服といい、四年に一回、服物を届ける。
そこから五百里を衛服といい、五年に一回、材物などをもってくる。そこから五百里を蛮服といって、六年に一回、貨物をもってくる。その外を蕃国と云って、それぞれの代で一回ずつ、なにか貴宝をもってくる。
邦畿方千里。其外方五百里謂之侯服、歳一見、其貢祀物。又其外方五百里謂之甸服、二歳一見、其貢嬪物。又其外方五百里謂之男服、三歳一見、其貢器物。又其外方五百里謂之采服、四歳一見、其貢服物。又其外方五百里謂之衛服、五歳一見、其貢材物。又其外方五百里謂之要服、六歳一見、其貢貨物。九州之外謂之蕃国、世一見、各以其所貴宝為摯。(『周礼』秋官・大行人)
……これ、本当にできると思って書いているんですかね(五年に一回、すごく遠くから木材などを運んでくるって、いろいろ厳しくないですか)。あと、『周礼』では「肉焚きで日月星辰を祀り、枝焚きで風神・雨神を祀る(大宗伯:以実柴祀日月星辰、以槱燎祀……風師・雨師)」みたいにやや未整理な祭祀がたくさん出てきます。
この今一つ規模感がわかっていないまま、未体系につくられている感が、さきほどの「広瀬・龍田の水神&風神」みたいに、やや急いで整えられながらまとめられていく感に似ている気がします……。
……そして、ここまでみた後で平城天皇の詔勅にもどってみると、無理やり中国ふうのスタイルを未整理ながらも入れていた白鳳期と比べて、かなり整った官制で地に足がついているけど、それでも小国的にみずから細かいところをアナログな感覚でみていくスタイルは白鳳期ふうというか……。
ちなみに、つぎの嵯峨天皇期では、もっとすっきり整理されているんですよね。
厄災の年には、畿内でも北辺でも、咸くその災を受けるのに、賑給日には、北辺には届かない。飢饉の苦は、同じように現れるゆえ、危うきときの恩は、華蛮いずれも受けるべきにして、今より後は、畿内などと同じく、凶作の年は北辺にも米などを届けるように。
損稼之年、土民俘囚、咸被其災。而賑給之日、不及俘囚。飢饉之苦、彼此応同。救急之恩、華蛮何限。自今以後、宜准平民、預賑給例。(『日本後紀』巻22)
なんとなくすっきり一律化した感じがありませんか……(冷淡というより、きれいにまとめられている的な)
薰灼四方
そして、いよいよ薬子の変なのですが、平城天皇は譲位した後に平城京に住んでいたのですが、しだいにもう一度皇位を取り戻そうという気持ちになっていきます(薬子が再即位を吹きこんだor平城天皇は躁鬱気味で、一時の気の迷いで譲位してしまったなどが云われてます)
ですが、ふたたび皇位を取り戻そうとするなかで、嵯峨天皇に気づかれて、しだいに周りの官人たちを引き剥がされていきます。平城天皇はひとまず東国に逃れて、態勢を立て直そうとしますが、じつは東国への通り道がすでに塞がれていることをみて、もはやこれまで……として引き返し、薬子は毒を呑んで……というのが、大きな流れです。
ところで、なぜ東国にひとまず逃れるのか――みたいな気がしてきますが、たぶん天武天皇・持統天皇のふたりが、昔追い詰められたときに、いちどは東国に逃れて再起して――みたいなことがあって、それを真似した面もあるのではないかと(ちなみに、さきほどの白鳳期は、天武天皇とその妻だった持統天皇の頃です)
もっとも、天武天皇・持統天皇は上手くいったのですが、平城天皇と薬子はすでに道が塞がれていて、従者の逃げ出しなども重なって、もはや無理だと気づいて引き返しています。
というわけで、ふたたび上田秋成『春雨物語』なのですが、薬子の最後は「薬子……怨気 焔なし、遂に刃に臥して死にぬ。この血の帳かたびらに飛び走りそそぎて、ぬれぬれと乾かず、猛き若者は弓に射れどもなびかず。剣に打てば刃缺けこぼれて、ただ恐しさのみ増りしとなむ」みたいにされています(実際は毒で自害だけど)
この薬子の怨みがべっとりとこびりついた帳って、たぶんですが、まだまだ自然のすごく身近などこか荒く激しい凄まじさが、わずかにべっとり残っていたけど、やや古いセンスになり始めている――という喩えというか(平城天皇も、白鳳期ふうのスタイルを平安初期の官制でめざしていた雰囲気があるというか)
なんか、すごくまとまらないけど、強いて云うと平城天皇・薬子は、天武天皇・持統天皇みたいなタイプの末期というか、どこか古い感性をしていたのかも……みたいな話でした。
すごく長かったですが、お読みいただきありがとうございました。