日本

嵯峨院の宮苑詩壇

「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。

 こちらの記事では、平安初期の嵯峨天皇の頃についてです。嵯峨天皇は、中国ふうの文化を好んでいたとされますが、実は中国ふうのなかでも“初唐末期(則天武后時代)&中唐”あたりをMixした感性だったのかも……みたいな話です。

 ちなみに、この雰囲気は嵯峨天皇だけというよりも、その周りにいた皇族・貴族などにもみられるかもです。

七言律詩の応制

 嵯峨天皇は、宮苑などでたびたびみずからの御製詩にあわせて同じ題材でかさねていく「応制」を出させています(ちなみに、応制では王朝を讃える系の内容を入れていきます)

 そして、応制では七言律詩がよく用いられるのですが、じつは七言律詩の応制を行なうのは、中国だと則天武后時代からなのです。

金の輿があさごとに碧の雲の中を行けば、ごしきの殿はあかるくして浅翠の澗隅たにに臨みたり。溪の水は泠々さらさらとして四方よもより流れ出でて、山の烟霧しらぎり片々ひらひらとして香にまざりて、神人は神鼎中にまだらの霊液を煮込みて、玉女は玉壺裡にひらひらとゆれる玉汁をめて、汾水に埋まりたる大神鼎などよりも、この太室山中の疊々じょうじょうたる真図みすがた漻々如ながれるごと爛漫なよやか――。

金輿旦下緑雲衢、綵殿晴臨碧澗隅。溪水泠泠雑行漏、山烟片片繞香炉。仙人六膳調神鼎、玉女三漿捧帝壺。自惜汾陽紆道駕、無如太室覧真図。(沈佺期「嵩山石淙侍宴応制」)

 このきらきらと緑雲・碧澗などに埋め尽くされているのが則天武后期のスタイルです。さらに、嵯峨天皇期の応制もみていきます。

九月の深山はしだいにかぜつめたくして、千峰萬嶺みねみねごとに薄い葉がゆれて――、ひらひらしらしらと淡裳の蜺色はないろゆるやかにして、隠れ住む人も女蘿つるくさをまといたる如くにいよいよ隠れたり。

霧ごとに谿たに深くして木々の色うすく、するどき崖ごとに水の色白くしてわずかに雲を出だし――、谷に入りてはいよいよ深く、深巒みやまのうえには白雲ばかりが遠く近くに流れけり

八月秋山涼吹伝、千峰萬嶺寒葉翩。羽客裳斑蜺気度、隠人帯緑女蘿懸。谿生濃霧織薄縠、水寫軽雷引飛泉。入谷猶知玄牝道、登巒何近白雲天。(朝野鹿取「秋山作 探得泉字 応製」)

 ……同じ七言律詩なのに、こちらは緑&淡いピンクみたいな色です。とくに「ひらひらしらしらと裳の蜺色もゆるやかに(羽客裳斑蜺気度)」などがうっすらピンクをふくみつつ、碧をおびた霧につつまれているというか。

 でも、「この深山は白雲につつまれてひらひらり――(登巒何近白雲天)」みたいに、嵯峨野にあった上皇御所の風光を讃えています(ちなみに、嵯峨天皇は上皇になってからも、20年ほど存世で、おもに嵯峨野のほうに住まれてました)

 この雰囲気は、嵯峨天皇期のほかの応制でもみられます(五言の応制もあります)

近来このごろの風日うららかにして、萬物はみな喜ぶごとくして、あわぎりが若草にひらひらとして、林はほわほわとうすい花をまといたり。わずかな雪はぼとりぼとりと梅花をゆらして、とぶ細いとは柳のみずにぬれていて鴻雁かりなどはみずべを離れて、しだいに朔方きたに帰りにけり。

近来風日麗、萬物奢春光。烟軽新草緑、林暖早花芳。餘雪落梅院、遊絲垂柳塘。鴻雁初遵渚、帰飛向朔方。(有智子内親王「五言 奉和春日作」)

 こちらも「あわ烟が若草にひらひらとして(烟軽新草緑)」がすごく緑&うすピンクです。一方で、さきほどの則天武后期の応制はもっとキラキラどぎつい色をしています。

 これは、たぶんですが、嵯峨天皇の好みでなんとなくもう少し落ち着いた色にしたかった――という雰囲気が入っているのかもです(あえて京都の北西にある嵯峨野に上皇御所をつくった感性なのかもです)

華やかな賦

 ところで、嵯峨天皇期には、日本ではめずらしく賦(楚辞ふうの「○○○兮○○」と四字句をまぜたスタイル。六朝末期には五字・七字も入るようになります)がたくさん生まれています。

三月の春気は江上にあふれる如くして、新年はる物色いろは河のうえを流れたり――、江霞はほろほろとして五彩を浮かべて、海靄はひらひらと白い耀きらめきを含み、柳はすらすらとはるぎりを絡める如く、桃はとろとろと風にとろけて香り、江の果てまでながめ遣れば、その清流みずはとろりとろりと或いはたまりてさからひあるいは渺々するするとしてそれでもらず、長くしてあふれるごとく、みてあふれたり……。

こんな春には、きっと春気がちあふれて江の上にもとろとろと耀ひかれば、羽族とりもあそびて、鱗群うをよろこび、ひらひらふわふわと舞うごとくして、あちらに出でてこちらに遊び、そよそと藻をべて、もよもよとうきくさめけり……。

つややかなること濡れた綢緞あやの如くして雲より薄銀のあわくして、水では清々そよそよとゆれるばかりな――、雁が帰れば汀洲うきしまばかりが、猿が鳴けば舟が遠くで過ぎていく春の――、心はわずかに春のいろにさそわれて江南江北ばかりを遨遊ながめていても、春のいろがとろとろと増えれば、年々としごとにこんな春が来ていても――。

仲月春気満江郷、新年物色変河陽。江霞照出辞寒彩、海気晴来就暖光。柳懸岸而烟中綻、桃夾堤以風後香。望春江兮騁目、観清流之洋洋。或漫兮似不流、或渺兮逝不留。長之難可識、濬之誰能測。茲可謂春気動而著於江色也。是以羽族翱翔、鱗群頡頏。繽紛雑沓、載来載行。咀嚼初藻、呑茹新荇。……静如練而雲間發光、與水而共清清。……帰雁欲辞汀洲去、飢猿轉動羈旅情。帰旅乗春心轉幽、江南江北事遨遊。惣為春深多感嘆、年年江望得銷憂。(嵯峨天皇「春江賦」)

 これは好みになってしまうけど、嵯峨天皇の才は詩よりもむしろ賦と駢文に出ている気がします……(詩は短すぎて、才識を出し切れずにいるというか……)

 こちらの「死生離別の悲しみ」があわく滲んでいるのが、すごく初唐らしいです。とくにこのつやつや濡れたような色めきが初唐末期(則天武后時代)の張説みたいです。

江上の山などは、おもおもしくてぎりぎりとするどいのだけど、雲はもたもたとして春霧などがあわいあかをうかべていてたちまちにしてはらはらとくずれるごとく流れていくゆえ、江上の深林は、冥濛もやもやとしてほの明るいやうな、鳥が花をおびてどこかで物悲しい色がうかんだような、紛々蕩漾ほやほやとろとろとしてほろほろと薄いので――。

夏の雲は高くて大きく、秋の水は平らかで長いというけれど、冬のすなばかりの疾風がふいて、春の草は芊々ちらちらといよいよ春のみずにぬれていて、四節きせつがまた黙運めぐりて、また光ばかりが遷っていくような、衆鳥とりなどがちいさい尾をぬらして、とおくに舟がうかびます……、この想いはどんなことでも足りなくて、ただ流れるばかりの春のみずと春の翠――。

江上之峻山兮、鬱崎嶬而不極、雲為峰兮煙為色、歘変態兮心不識。江上之深林兮、杳冥濛不已、鳥為花兮猿為子、紛蕩漾兮言莫擬。夏雲陰兮若山、秋水平兮若天、冬沙飛兮淅淅、春草靡兮芊芊。感四節之黙運、知萬化之潜遷、伴衆鳥兮寒渚、望孤帆兮日辺。……是心也、非模放之所逮、将有言兮是然、将無言兮是然。(張説「江上愁心賦寄趙子」)

 ……すごく似ていませんか(似せて訳していると思われるかもですが笑)

 ちなみに、則天武后時代のすこし前に活躍した王勃・盧照鄰などもなんとなく似ているかもですが、王勃ってもっと「江北から来た客に出会えば、江南は今ちょうど春の如くして、羅衣うすいきぬが北のみなもにゆれて、緞子の袖が東のでとろとろり(忽逢江外客、復憶江南春、羅衣乗北渚、錦袖出東鄰)」みたいに、春草のいろがどこまでもつづいている感があります。

 あと、盧照鄰では「うすけむりが紫のなみをひたして、露の色があかい若草に落ちて――(泛煙光於紫瀲、翻露色於丹滋)」みたいなテカテカ感があるというか(王勃「春思賦」、盧照鄰「楊明府過訪詩序」より)

 なので、その癖のある雰囲気が、初唐末期になってしだいにやや薄まっていくと、張説の「春の草はそよそよひらひらとして(春草靡兮芊芊)」「のよのよふわふわとして耀ひかりも定まらず――(紛蕩漾兮言莫擬)」みたいにうっすらと五色がまざりあって滲んだようになっていくみたいな気がします。

初唐末期の駢文 「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。  こちらの記事では、初唐末期の駢文についてみていきます。初唐(618~7...

 というわけで、嵯峨天皇も「海靄が晴れてぬるみのある光をふくみて――(海気晴来就暖光)」「鱗群いろくず頡頏ゆれあそびて、ひらひらほろほろとして(鱗群頡頏、繽紛雑沓)」みたいなうっすらと五色が滲んだような雰囲気です。

 あと、話がそれるけど、嵯峨天皇は書も得意だったのですが、その流れるような湿り気は、初唐ふうの書をさらにうるおいゆたかにした感があります(上段が嵯峨天皇、下段が初唐の褚遂良)

 ちなみに、こちらの褚遂良ちょすいりょうの「谷の木々はしだいに揺落かれていき、大きな巌すらも変衰くずれていく中で、平原はさらさらとして暮れれば、深き水面みなももひっそりとして秋の雲が――(穀林揺落、橋巌変衰、平原淒兮白日遠、深渚澹兮秋雲飛)」というふうに、初唐って四言&兮Mixの賦みたいな駢文が多くなります(褚遂良「唐太宗文皇帝哀冊文」より)

中唐ふうの趣味

 さらに、嵯峨天皇期の詩は、則天武后時代らしさに加えて、すこし中唐(安禄山の乱~800s初めくらい)らしさも入っています。とくに大暦年間(770s頃)に流行っていたスタイルに似ています。

こちらにひらひらと飛んできて、またひらひらと遠く飛んでいく――、林の上からぼとりと雪が落ちて、水の先でわずかに波がたって、山亭からのぞいていれば、碧のそらに白鷺が――

浮き雲はこの山に至らずして、わずかに山靄やまぎりが槙の上を蒼々あおあおとしてあさの月が樹々のうえに懸かりて、秋の星が西の峰に翳るのですが。

迥起来応近、高飛去自遥。映林同落雪、拂水状翻潮。猶有幽人興、相逢到碧霄。(李端「白鷺詠」)
浮雲不共此山齊、山靄蒼蒼望轉迷。暁月暫飛高樹裏、秋河隔在数峰西。(韓翃「宿石邑山中」)

 もはや山中の寺みたいです……。というわけで、嵯峨天皇もみていきたいと思います。

みずのちかくの亭子やどり人事ひとすくなく、古いかべに住んでいる鶏ばかりがたまに聞こえて、雲気が下りてきて衣が冷えるほどみねに近くして、泉流の声がねやの下をすぎていくので、天のさきの月がしだいに低くなって水にまだ浮かんでいて、山の裏では猿がほそく鳴いたような――。まだ二月の山すその薄朝明けに、汀草みずのくさ萋々さらさらとわずかに水がふえたような――。

江頭亭子人事睽、欹枕唯聞古戍鶏。雲気湿衣知近岫、泉声驚寝覚隣渓。天辺孤月乗流疾、山裏飢猿到暁啼。物候雖言陽和未、汀洲春草欲萋萋。(嵯峨天皇「江頭春暁」)

 ……さきほどの則天武后時代ふうと全然ちがいます。おそらく水の近くで山々にも近くて――というのが、たぶん嵯峨野の御所だとおもうのですが、実際いまの嵯峨野もこんな感じかもです。

 もっとも、嵯峨天皇の中唐ふうの趣味はけっこう有名なのですが、「まだ春になりきらぬ二月の朝明あさけに、汀草が萋々さらさらとわずかに水がふえたような(物候雖言陽和未、汀洲春草欲萋萋)」の終わり方が、則天武后時代の「汾水に埋まった大神鼎よりも、太室山中の堂々たる大巌の華模様――(自惜汾陽紆道駕、無如太室覧真図)」みたいな皇帝・天皇の居るところを讃える感じに似ていませんか……。

 この中唐ふうの趣きで、どこか則天武后時代の応制の匂いがある――というのが、嵯峨天皇らしさなのかもです。

 あと、同じころの貴族たちは、官人としての贈答で中唐ふうのものがあります。

積まれた石は千里ほどたかくして、ほそい路は九つ折れで、山深い雪に迷わされるような、馬が崖の雲を踏むような――、巌がぎしぎしと固くして花も少なく、渓はぎりぎりと深くして日もれ易く、その路はどこまでつづくとも知れず、紛々はらはらとして霜葉が紅く積もり――

積石千里峻、危途九折分。人迷辺地雪、馬躡半天雲。巌冷花難笑、渓深景易曛。郷関何処在、客思轉紛紛。(坂上今継「渉信濃坂」)

信濃坂しなのざか」というのが味わい深いです。この山中での贈答というのも大暦年間の人にかなり多いです。

紹興の人は山寺に移り住みて、その野路は寂びた古柴垣がつづいて、しずかな門は古い林に面しているが、海のそばでは早くも米がゆれて、湖ではいさり火が多くして、世のひとのどうにもならぬこと、いよいよ拙なくて逃得れず。

許詢清論重、寂寞住山陰。野路接寒寺、閑門当古林。海田秋熟早、湖水夜漁深。世上窮通理、誰人奈此心。(耿湋「贈厳維」)

 嵯峨天皇期の人って、応制では則天武后時代ふう、官人どうしの贈答などでは中唐ふうのスタイルが多かったような気がします(だいたいの雰囲気です)。中唐って、ちょっとそれぞれが旅の心ほそさ・世のどうにもならなさ・山暮しのしずかさ――など、それぞれ内容が多彩になっていくイメージです。

嵯峨天皇の詔勅

 というわけで、いよいよ嵯峨天皇の詔勅です。実は、これがとても洗練されています……。

諸々あちこちの国司で、与えられたほかに私田を隠し持つものは、すでに厳しく禁じている。しかし諸国で朝憲くにのきまりに従わず、私利ばかりを求めており、百ばかり姦欺ごまかしもちいて、一つの懲革あらためも無いと云う。あるものは他人の名をりて、あたらしい田を買い纏め、あるものは貴人の威をかたって、き地を占め上げているらしく、民の暮らしを害する事、とりわけ甚だしい故に、もしこれを違犯やぶる者がいたら、すぐさま国司の位を奪う。

比年ちかごろ 新年の礼に於いて、その礼容ふるまいを知らずして、俛仰ひとときことにも、まま違失あやまりを起こす者が居り、威儀をきたる上に、積慣おろかしきも改めず、これからは典礼署に命じて、毎年の十二月に礼則を習わせ、容止たちいふるまひ可観よくして、進退いすがた可度かなふようにさせよ

諸国司、公廨田之外営水陸田、特立厳制。而諸国不率朝憲、専求私利、百端姦欺、一無懲革。或假他人名、多買墾田、或託言王臣、競占腴地。民之失業、莫不由此。若亦有違犯者、解却見任。(『日本後紀』嵯峨天皇 弘仁3年)
比年賀正之臣、不諳礼容。俛仰之間、或致違失、威儀有闕、積慣無改。宜令所司、毎至季冬月、預加教習、俾容止可観、進退可度。(『日本後紀』嵯峨天皇 弘仁9年)

 これは訳してしまうとすごく分かりづらいのですが、実は中唐の駢文に似ているのです(駢文:対句の多い装飾文体)。でも、一見すると、嵯峨天皇は対句にみえないところが多いです。

 まず、一つめの「不率朝憲、専求私利」「百端姦欺、一無懲革」がどちらも練られています。不率したがわず専求もとめてばかり朝憲くにのきまり・私利、百端ひゃくほどの一無ひとつもせず姦欺ごまかし懲革あらためって、かなり分かりづらくないですか。

 ちなみに、初唐末期の対句だと「感四節之黙運きせつのうつりかわり、知萬化之潜遷もろもろのめぐり」みたいに、かなり組み合わせが分かりやすいです(横に並べた対句というか)

 さらに二つめの「賀正臣、不諳しらず礼容ふるまい俛仰ひととき之間、或致違失あやまり」も二句ずつでよくみると対句です。でも「賀正(新年の挨拶)」と「俛仰(ひとときの事)」、「礼容ふるまい」と「違失あやまり」ってやや崩れた組合せです。

 こういう崩れた対句って、じつは中唐の駢文に多いです。

朝序みやこに登るたびごとに、公方おおやけごとよくおさめ、藩條とおくのことを任されれば、その理行すみやかなるはいよいよあかるくして、恪恭つつしみて上を奉じて、勤倹つとめて人をやしなう。この者を寵栄おもんじずして、褒めるものなどなく、ゆえに漕運ふねのことなどまかせるが、それは国のたべものなれば、その務めは甚殷とてもおもく、そのあずかることはいよいよ大事になる。

ゆえに忠労つとめること前効さきのごとくして、幹済よくおこなうこと長才すぐれておぼえたる如くなれば、諸道の塩鉄転運使に任じる。

累登朝序、皆著公方、自領藩條、益彰理行、恪恭而奉上、勤倹以牧人、不加寵栄、何勧来者。朕以擢管漕運、軍国所資、其務甚殷、所寄尤重、以卿有忠労之前効、幹済之長才、……充諸道塩鉄転運使。(白居易「與盧恒卿詔」)

 これも「累登のぼるごとに朝序みやこ、皆著公方おおやけごとで;自領藩條とおくのこと、益彰理行よくかたづける」みたいに朝序みやこ藩條とおくのこと」などが少しずれているというか。あと、「前効(いままでの功)・長才(すぐれた才)」というのも、ふつうの対句だと“前後”とか“長くて高い”とかにしてしまいそうなのを、微妙に変えているというか。

 こんなふうに、嵯峨天皇は、初唐末期(則天武后時代)らしさと中唐(とくに大暦年間)の混ざったような感じがあります。あと、同時期の貴族などもどこか近い趣味をもっていたのかもです。

 すごく長くて複雑な記事になりましたが、お読みいただきありがとうございました。

ABOUT ME
ぬぃ
こちらでは、中国文学のやや深く狭めな話をのせていきます(もっと分かりやすい話は、下のリンク先にあります♪)

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA