六朝

神弦歌

「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。

 こちらの記事では、「神弦歌」という隠れ傑作について紹介してみます。こちらは、おそらく東晋(317~420)あたりの長江下流での神楽らしいです。

 その味わいを一言でいうと、「六朝ver.の九歌」みたいな感じです(ちなみに、九歌は戦国期の楚の神楽です)。というわけで、さっそくいってみます。

神招ぎ

蘇林神が天門を開きて、趙尊神が地戸を閉じて、ぞよぞよとして神霊たちがくだり給いて、真官様がり来り。

蘇林開天門、趙尊閉地戸。神霊亦道同、真官今来下。(「宿阿曲」)

 まず、ひとつめの「宿阿(神の由来不明)」は、なんとなく九歌・大司命の「天門を大きくひらかせて、つめたき風に馳せさせて、凍雨をおびて路をきよめたり(広開兮天門、……令飄風兮先駆、使凍雨兮洒塵)」に似ていませんか……。

 あと、蘇林は周代の飛ぶ神仙、趙尊は前漢の暗く隠れ住む隠士らしいです(それぞれ天門・地戸になんとなく重ねられているみたいな……?)ちなみに、こちらは神弦歌の最初にあるので、たぶん神招きで用いられたのかもです。

 余談だけど、たぶん「真官」というので、どうやら道教系の神様らしいです。

門庭には樹があって、みずから梧桐と名のりつつ、ひらひらとあかるい枝がつやつやり――。

苕々てかてかたる山上のスギは、夏冬とも無くつやめきて、わずかにひとり天の恩をうけて、枝も葉も威蕤つやつやり

中庭有樹、自語梧桐、推枝布葉。(「道君曲」)
苕苕山頭柏、冬夏葉不衰。独當被天恩、枝葉華威蕤。(「姑恩曲 其二」)

 こちら二つは、どちらも神木の様子らしいです。中庭にある木が、みずから梧桐きりの木神」と名のっていたり、山上にある木が天の恵みをうけてつやつやと喜ぶごとく冬でも明るい――みたいな感性って、じつは平安初期の神楽歌によく似ています♪

八度やたび置けど枯れせぬ榊葉の たち栄ゆべき神の巫女きねかも
神垣の御室みむろの山の榊葉は神のみまへにしげりあひにけり

 霜が幾度も下りても、それでも蒼々しき榊葉のような――だったり、みむろ(神の宿るところ)の前の榊葉はいよいよ豊かに茂り給えり――みたいな、神域・霊域での植物のつやっぽさや豊かさがすごく同じかもです(すごく好き)

 あと、「わたしは梧桐――」って語る神って、とても味わい深いです。別にそれほどすさまじい霊威を振うとかじゃなくて、なんとなく妖しげで昔から居る感がたまらないというか……。九歌よりも、もっとローカルで小さい神々ですよね。

水草の橋

蹀躞うろうろとして橋の上――、川の水が東西にながれます――、西には神仙の居があって、東には魚たちがおりますので、出かけるときはひとりじゃなくて、魚たちと一緒なの――。

舟をうかべて菱の葉をれば、まちがって芙蓉はすの花をんでしまって、あわててみんなでこえそろえて、蓮の実ころころからころり――。

蹀躞越橋上、河水東西流。上有神仙居、下有西流魚。行不独自去、三三両両俱。(「嬌女詩 其二」)
泛舟採菱葉、過摘芙蓉花。扣楫命童侶、斉声採蓮歌。(「採蓮童曲 其一」)

 ……最高じゃないですか。もはや細かい話とかどうでもいいのですが、魚とか植物(とくに沼の蓮とか菱とか)がすごく身近な神って、いかにも民間の神楽らしくて良きです。

 あと、「西には神仙の居があって(上有神仙居)」の雑な土着伝承感もすごく雰囲気でてます。

門の前には澄んだ水――、わたしがいるのは橋のそば。ひっそりとして、さらさら翳る竹ばかり。

開門白水、側近橋梁。小姑所居、独処無郎。(「青渓小姑曲」)

 これは、青渓(南京の東側の川)にいる小姑(三女)神なのですが、「白水」は澄んだ水です。南京って、じつは東晋のみやこなのですが、じつは都ちかくでも、けっこうこういう神楽が残っていたのが興味深いというか(地方とか、もっとすごかったのかも……)

 あと、「小姑」というので、おそらく「大姑・中姑(長女・次女)」の神もいるのかもです。たぶんですが、中岳嵩山(少室山・太室山)、西岳華山(神姑林)みたいな神々が一族でどのあたりに住んでいるか――みたいな感性が、すごくローカルになったver.が神弦歌です。

 そして、祭りの終わりには、薄い色の月が夜になってからでたような草原くさはらみたいな神送りがあります。

人生は百年に満たずして、いつも千年ほどの憂いばかりがあるのだから、死んでしまうに早すぎて、夜にはあかりで一遊び――。

人生不満百、常抱千歲憂。早知人命促、秉燭夜行遊。(「同生曲 其一」)

 これ、泣かせませんか……。ちなみに、こちらは後漢あたりにすごく似ているものがあって、ドライで享楽的なのにもっと大きい悲しみと苦しみのほうが多いのだから――みたいな雰囲気がすごく似ています。

生きているのは百年に足りず、つねに千歳の憂いばかりがたまっていて、昼は短く夜は長し――、りがひとつほしい夜です。こんな楽しい夜があるなら、いつ次がめぐり来るかも知らず――。愚かな者はかねを惜しんで、後のひとから笑われて、神人なんて云うものは、遠くを飛んでばかりなのだから。

生年不満百、常懐千歳憂。昼短苦夜長、何不秉燭遊。為楽當及時、何能待来茲。愚者愛惜費、但為後世嗤。仙人王子喬、難可與等期。(古詩十九首 其十五)

 ここだけ急に神楽というより、一気に世俗的なのです♪このごちゃまぜに不規則な感じ(楚辞ふうの神楽と、後漢ふうの享楽感がまざっている)が、とても六朝の田舎らしいのかもです。

 どうでもいいけど、この神弦歌の作者は不明なのですが、かなりセンスいい人ですよね(笑)とくに、最後の神送りがとても寂しげで好きだったりします(なんか、楽しいことをどれだけしても、結局みんな悲しみの中なのだから――みたいな感性が、すごく好きなんですよね)

 すごくマイナーな話ですが、お読みいただきありがとうございました。

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ぬぃ
こちらでは、中国文学のやや深く狭めな話をのせていきます(もっと分かりやすい話は、下のリンク先にあります♪)

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