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こちらの記事では、六朝末期~初唐あたりのやや律詩っぽいような、どこか古詩っぽいような「半古半律詩」についてみていきます(わたしがとりわけ好きな時代……)
ちなみに、そのころの五言詩は、長さ・対句が不規則な「古詩」と、対句をきれいに整えてある「律詩(排律)」が混ざっている感じでした(そして、独特のうねうねと歪んでいる雰囲気がたまらなくおしゃれです♪)
半古半律の詩は、なんとなくですが“前置き(場面の説明)+いろいろな描写+思ったことを一言”みたいな形になっています。そして、対句でいろいろな描写を重ねていくのが大事なので、全体としてはけっこう歪んでいても大丈夫だったりします♪(この微妙にいびつでうねうねと捻じれているのが、むしろ実際の姿っぽくて、この頃の詩が大好きなのです)
道中行状記
この頃の詩って、実はそこまで難しい事をしていないけど、なんとなく雰囲気がおしゃれ……というのが、すごく魅力的なのです。
薄く青い淮水がさらさらとつづいていて、朝の霧がひらひらとうすくながれるので、淮水の木々はぼやぼやと濡れていて、うす靄ばかりが白く光っているような――。晴れた薄霧が中洲にゆれていて、きらきらと舟が巌の陰から出てくるので、魚が小さく跳ねて浪がゆれて、沙の上の禽たちが鳴いて散っていくので、秋の夜が来るころには、さらに水がつめたく澄むのでしょう――。
平淮既淼淼、暁霧復霏霏。淮甸未分色、泱漭共晨暉。晴霞轉孤嶼、錦帆出長圻。潮魚時躍浪、沙禽鳴欲飛。会待高秋晚、愁因逝水帰。(隋・煬帝「早渡淮詩」)
これは、初・二句めが対句になっていて、三・四句&七・八句が非対句ですが、全体としては初めの二句で大きく場面の様子をみせていて、そのあとに薄霧につつまれた淮水の様子をいろいろと並べていって、最後の二句で「こんな水辺は、きっと秋の夜にはさらに水が冷たく澄むようなのでしょう――」みたいにまとめます。
いかにも六朝末期~初唐ふうにするときは、最後の二句をちょっと捻りを効かせて、あえてやや離れた場面のことを入れるようにしておくと、かなりそれらしくなります(この例では、最後の二句だけ夜のことで、それまではずっと朝霧の様子ばかりみたいな)
あと、この時期の詩って、すごく風景にふくまれている光とか濡れ感を好んでいます。さっきの例でも、「淮水の木々はぼやぼや濡れていて(淮甸未分色)」だったり、「晴れた薄霧(晴霞)」みたいな感じがたくさん出てきます。
櫂をゆるめて速い谿を過ぎて、鞭もふらずに狭い峰を登っていく。江の濤はさらさらと岸を削るごとくして、峰の石路はさりさりと雲に刺すようで、流れが吸いこまれて舟の跡が乱れて、巌が斜めで馬の影が低く落ちます。
水霧はうす緑の沼を籠めていて、山の陽が紅い崖石を照らしていて、風が蘋沼の葉をゆらして、わずかな露が竹潭の枝を飾りました――。水の旅は優雅なものと云いますが、その漕ぎ手は労して川をさかのぼるのですが。
弭櫂凌奔壑、低鞭躡峻岐。江濤出岸険、峰磴入雲危。溜急船文乱、巌斜騎影移。水煙籠翠渚、山照落丹崖。風生蘋浦葉、露泣竹潭枝。泛水雖云美、労歌誰復知。(唐・王勃「泥谿」)
これは道中記みたいです。もはや初めの場面説明とか、険しく狭い山沢の間を通っている感があれば、そんなに凝らなくてもいいのかもです。
むしろ大切なのは、中間の対句での描写編です。ここでたくさん複雑多彩な様子をならべていくと、すごくおしゃれになります。ちなみに、三・五・七句めがいずれも水、四・六・八句めがいずれも山になっているので、対句の順番どおりに場面が並んでいたというわけではないかもです。
あと、わたしが印象に残ったのは、「蘋沼の葉(蘋浦葉)・竹潭の枝(竹潭枝)」です。ふつうは「沼の蘋葉・潭の竹枝」みたいになりそうなのに、この無理やり感がすごく不思議です。
まぁ、「蘋沼の葉」はまだ分かるかもですが、「竹潭の枝」はかなり異様なセンスです。でも、こういうやや読みづらい字が入っていても、途中にあったやや変わったもの――くらいの感覚で、とりあえず馴染ませられてしまうのがうねうねとつづいている半古半律の面白さなのです。
道中にやや奇妙なものがあったり、山沢の同じような様子が何度もくり返されていたり、ちょっといびつでもそれっぽい――というのが、なんとなく実際の道中っぽくて良くないですか(すごく余談だけど、最後の二句で水旅の険しさを云っているけど、それまでの描写が険しさメインじゃないのが、なんか皮肉っぽくて好き)
うねうねつやつや
つづいては、やや長いものをみてみます。
地神は山界の霊場に居りて、諸堂はひっそりと深き御域なり。月宮は鏡の如き石にのぞみて、花の賛は蓮の如き峰々をめぐりて鐫られて、五色の霞は幟の影を湿らせて、雲気はひらひらと炉の烟にまざるようなので、高き松はするすると傘を重ねて、落ちる水瀑はさらに小さく割れていくのです。
風をふくめて裏の竹などが鳴れば、淡い露が百花を濡らしてあざやかでして、昔よりこの寺域を尋ね奉りて、永く心に留めて詣でておりましたが、その山庭には豆や菜が植えられていて、さらさらと近くを水が潤しますので、事に及んでたびたび参り奉りて、しだいに山域の静かさに染まるような。
その山に雲が涌いて雨が降りますが、山下には白い雲ばかりが涌いては流れるだけなので、ただ南を眺めていれば、雲ばかりがさらに東に流れます。
地霊居五浄、山幽寂四禅。月宮臨鏡石、花賛繞峰蓮。霞暉間幡影、雲気合炉烟。迥松高偃蓋、水瀑細分泉。含風万籟響、裛露百花鮮。宿昔尋真趣、結友亟留連。山庭出藿蘼、澗沚濯潺湲。因斯事熏習、便得息攀縁。何言遂雲雨、懐此悵悠然。徒有南登望、会逐東流旋。(陳・姚察「游明慶寺詩」)
なんていうか、完成度が高い句でぎちぎちに固められているというより、全体のうねうねと曲折があるのが綺麗ですよね。
とくに「月宮(月の光を映した仏殿)・鏡石(明るい石)・花賛(花に囲まれた仏讃)」みたいに、まわりの明るさを含ませたような語がたまに出てくるのが、とてもおしゃれです。あと、「五色の霞は幟の影を湿らせて、雲気はひらひらと炉の烟にまざって(霞暉間幡影、雲気合炉烟)」も似たような湿った耀き感です。
最後のところはかなり意訳しているけど、雰囲気としては“明慶寺に長年詣でていて、しだいしだいに山下の雲がどれほど流れてもまぁそれも流れる雲ですから――みたいな気分になりました”というのを、とても遠回しに云っています。
うねうねと色々な様子が並べられていて、その中に濡れたような耀きがたまにのぞいて、最後はなんとなく遠回しに雰囲気だけを云うのが、とても洗練されていませんか……。
つづいては、あえて短い律詩型(八句)をみてみます。こちらも同じく山中の寺院です。
舟を寺の前に停めてみれば、うすら寒い林から出でてまた舟に乗るのです。竹は近くで枝をばさばさと重ねていて、山は遠くしてほそい逕はどこかに消えていくのですが、小さい鳥たちが暗い林に入っていって、夕陽がじりじりと曲がった枝などを照らすので、雲中に届ける手紙なども知らぬまま、餞送の花ばかりを眺めて舟の上――。
息舟候香埠、悵別在寒林。竹近交枝乱、山長絶逕深。軽飛入定影、落照有疎陰。不見投雲状、空留折桂心。(陳・江総「経始興広果寺題愷法師山房詩」)
山中の寺を離れるときの気分を、あえて「雲のなかに届ける手紙もないまま、寺の庭の花ばかりを眺めて――(不見投雲状、空留折桂心)」というのが、すごく想いが吐ききれない感があります。
あと、「竹は近くでばさばさと枝を重ねていて、山は遠くしてほそい路はどこかに消えていく(竹近交枝乱、山長絶逕深)」「夕陽が曲がった枝などを照らして(落照有疎陰)」みたいな、ちょっとがさがさと薄暗くて乱れている感じがあるのも、うら寂しい気分に似合っています。
ちなみに、こちらの江総という人は、なんとなく乱世の諦めの悲しみがあふれた詩風というか、山中の寺院でもどうにもならないし、逃れる先もないのだから、まぁ雲林の中に届ける手紙なども私にはないのですが……みたいな雰囲気があります(六朝末期~初唐では、うねうねする曲折の形がどうなっているかが、その人の作風かもです)
北辺はもう春になりましたでしょうか――、私はまた春の景色をみています。春衣はほこほこと暖かく、鏡にも桃の日射しがあふれる頃になりましたので、燕がひらひらと軒をかすめて、蜂が衣架の裏を飛んでおりますが、桃などがそんなにつやつやしていますと、心がそわそわと春の風に舞い立つばかりで、髪を整えて粉を散らしても、花が廊のそばまで白くたまるばかりでした。
こちらのことを知る日が来るのかもわからぬまま、ひっそりと桃花の奥で過ごすばかりでしょうか――。
関塞年華早、楼台別望違。試衫著煖気、開鏡覓春暉。燕入窺羅幕、蜂来上画衣。情催桃李艶、心寄管弦飛。妝洗朝相待、風花暝不帰。夢魂何処入、寂寂掩重扉。(唐・張若虚「代答閨夢還」)
こちらは、代筆の手紙みたいな作品です。もはや詩としてまとめることよりも、うねうねと流れている不規則な形が、とりあえず「前置き&思ったこと」の間にとりあえず入っている――みたいな感じがすごく複雑に捩れていて惹き込まれます。
というわけで、かなりマイナーな時期の作品についてでしたが、この世の不規則で渾然としている感をなんとなく湛えているような半古半律の魅力を感じていただけたら嬉しいです。お読みいただきありがとうございました。