日本

桓武天皇の詔勅

「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。

 こちらの記事では、平安初期の桓武天皇についてです。ふつう、桓武天皇と云えば平安遷都――みたいなイメージですが、実はかなりの駢文の名手でもあるので、今回は桓武天皇の隠れた名品を紹介していきます。

 ちなみに、桓武天皇の駢文は、ほとんどが詔勅などの実用的なものになります(でも、それがなかなか味わい深い……)

 というわけで、さっそくみていきます。

桓武天皇の詔勅

 まずは、桓武天皇の詔勅を二つほどみてみます。

平城の旧都では、元来むかしから寺が多く、僧尼などもむだに多く、濫行よからぬことをしているとしばしば聞く。ゆえに藤原園人を送りこんで、よく検察みまわらせることにする。(『日本後紀』巻7 延暦17年)

浮宕之徒ながれものたちが、貴家の荘園などに寄住すみこんで、その権勢を借りて、税などを逃れているという。さらに荘園のあるじは多くの私田かくしだをもっていて、貴家の威勢を借りていると云い、民をくたすこと甚だしい。その奸猾くされがしこもとは、絶ち切るに限るゆえ、さらに禁制を加える。

平城旧都、元来多寺、僧尼猥多、濫行屡聞。宜令正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人、加検察。(『日本後紀』巻7 延暦17年)
浮宕之徒、寄住王臣之庄、仮勢其主、全免庸調。云々。又庄長多営私田、仮威乗勢、蠧民良深。奸猾之源、不可不絶。宜加禁制。(『日本後紀』巻6 延暦16年)

 一見すると、ふつうの詔勅みたいだけど、よくみていくとかなり悪辣な語彙が入っています。

 まず、一つめの「昔から寺が多く、僧尼なども猥に多く(元来多寺、僧尼猥多)」の猥(猥雑:良からぬものがうようよしている)みたいに、平城京の寺院とのしがらみを離れて、平安京に遷っていった感がすごく出ています。

 さらに二つめも、「くさらせる」がすごいです。って、木の中にすんでいる虫なのですが、ここでは荘園の管理人の隠し田みたいなものが、世を内側から腐らせていく――みたいな雰囲気があります(あと、「奸猾くされかしこい」とかも、するすると隙間に滑り込むケモノみたいな字をわざわざ出しているのが、すごく実際の様子と合っている)

 ところで、このするどく悪辣な激しさって、かなり隋煬帝の詔勅に似ています。

近ごろ妖氛あやしいもや充斥たちこめて、陝西・河南あたりを擾動みだしていたというが、衛文升はひきとぎすさみて、ときを謀りてすぐさま赴き、表裏より奮い入りて、兇醜よからぬもの摧破きりつぶし、これは宜しく褒めて、賞を高くするべきゆえ、右光禄大夫の位にする。

近者妖氛充斥、擾動関河、文升率勵義勇、応機響赴、表裏奮撃、摧破兇醜、宜升栄命、式弘賞典、可右光禄大夫。(隋煬帝「下衛文升詔」)

 こちらの煬帝の詔勅も、叛乱について「妖氛よからぬもや兇醜よからぬもの」だったり、「勵(ぎ上げる)」「表裏より奮い入る(表裏奮撃)」みたいな激しく鋭い雰囲気が、桓武天皇の「蠹(腐らせる)」「猥(無駄に)」に似ていませんか……。

 あと、煬帝の「宜しく褒めて、賞を高くするべきで(宜升栄命、式弘賞典)」のぐねぐねと低昂あがりさがりする感じは、桓武天皇のこちらに似ています。

山城国の葛野川かどのがわ(今の大堰川)は、都ちかくにあるのだが、たびたび水が増えるごとに、あるいて渡ることができなくなる。とくに大寒のころになると、人馬ともにてるほどゆえ、往き来するものは、いずれも苦しんでいた。よって楓・佐比の二つの渡しをつくって、度子わたしもりを置き、民の苦を除く。

山城国葛野川、近在都下、毎有洪水、不得徒渉。大寒之節、人馬共凍。来往之徒、公私同苦。宜楓佐比二渡、各置度子、以省民苦。(『日本後紀』巻8 延暦18年)

 これは「大寒の頃になると、人馬ともに凍てるほどゆえ(大寒之節、人馬共凍)」が、刺すような冷たさがあって、「楓・佐比の二つの渡しをつくり(宜楓佐比二渡)」でするどく救い上げる様子とかが、さきほどの「妖氛(妖しい臭気)・栄命(高く褒め称える)」みたいなぐねぐね感に似ているかもです。

山城国の愛宕あたご葛野かどのの二郡の人は、死者が出るごとに家のそばに葬っており、長らくそのような習わしになっていた。しかし、今の世では京師みやこに近くして、凶穢いんきなものは近づけるべきではない故、郡内に告げて、今後は重く禁じる。もし破るものがいたら、他の国にうつすことにする。

山城国愛宕葛野郡人、毎有死者、便葬家側、積習為常。今接近京師、凶穢可避。宜告国郡、厳加禁断。若有犯違、移貫外国。(『日本後紀』巻5 延暦16年)

 こちらも「凶穢(陰気なもの)」が「妖氛」みたいなどよどよと薄暗い感に似ているようで、この切り立つようなするどさが、桓武天皇と煬帝でどこか近い雰囲気があるというか(この墓の習俗は、すごく味わい深いと思うけど……)

 こんなふうに、桓武天皇の詔勅は、ぎりぎりと堅くするどく切り落とした感が、かなり煬帝ふうにみえたりします。

隋 煬帝の詔勅 「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。  こちらの記事では、隋の煬帝ようだいの詔勅みことのりについてです。ふつう...

上帝の祭文

 そして、桓武天皇は、上帝を祀る郊祀(木の枝などを積み上げて燃やす中国ふうの祭り)をしています。さらに、そのときの祭文が実はかなりの名品なのです……。

延暦六年、畏れ多くも上帝に昭告ここにもうしつたえさせていただきます。わたくし(桓武天皇)はおそれおおくも眷命てんめいを賜り、鴻基大きなくにを嗣ぎ守ることになり、幸いにして穹蒼てんたすけを降し、覆燾たかくおおいてよきものいだし給えば、四海よものうみ晏然おだやかにして、万姓よのたみ康楽たのしみたまえり。

この今に日のひかりは南に至りて、冬至の翳高らかにして、つつしみて燔祀けむりをささげて、天の威に答え奉りて、謹みて玉・ぬの犧牲にえ粢盛こめなどを捧げて、さらに禋燎けむりを贈りて、その潔誠きよらかなるたてまつる。上帝に加えて先帝光仁天皇の霊もめしあがられれば嬉しく思い奉ります。

維延暦六年、歳次丁卯……敢昭告于昊天上帝。臣恭膺眷命、嗣守鴻基。幸頼穹蒼降祚、覆燾騰徴。四海晏然、万姓康楽。方今大明南至、長晷初昇。敬采燔祀之義、祇修報徳之典。謹以玉帛犧牲粢盛庶品、備茲禋燎。祇薦潔誠、高紹天皇配神作主尚饗。(『続日本紀』巻39 延暦6年)

 こちらの祭文も、「幸いにして天はよきものを降し(幸頼穹蒼降祚)」からの「四方の海は安らかにして(四海晏然)」みたいなぎりぎりつながってからの大きく興す感が、さきほどの煬帝の「妖しき霧の立ち籠めて(妖氛充斥)」からの「兇醜よからぬものを打ちくだきて(摧破兇醜)」みたいな何とか繋げた感に似ているというか。

 この危ういところをぎりぎりでつづけていく様子が、無理やりでも立てて興していく時期らしい激しさなのかもです。

 ちなみに、見慣れない字についてですが、「恭膺」は「おそれおおくも膺(応)じる」、「眷命」は「天がて命じる」、「嗣守」は「嗣ぎ守る」、「鴻基」は「鴻(大)きないしずえ」です。さらに「燔祀」は「枝草などをもやして祀る」、「禋燎」は「きて禋(煙を届けて祀る)」です。

 このわずかに天からの命をうけて、ぎりぎりでつながっている様子が、すごく煬帝の隋(六朝をなんとか纏め上げている)だったり、桓武天皇の平安初期(新しいみやこで、旧来のものを切りすてて始める時期)らしい危うくて激しい雰囲気というか。

 あと、こちらの祭文は、実は隋の文帝(煬帝の先代)にすごく似ているものがあります(同じく郊祀用のもので、どうやらこれを原案にしているかもなので、似ているところを色をつけてみました)

維仁寿元年、歲次作噩、嗣天子臣堅、敢昭告於昊天上帝。璇璣運行、大明南至。臣蒙上天恩造、群霊降福、……此皆昊天上帝、爰降明霊、矜愍蒼生、寧静海内。故……敬薦玉帛犧齋粢盛庶品、燔祀於昊天上帝。皇考太祖武元皇帝、配神作主。(隋文帝「改元祠南郊板文」)

 とりあえず、訳はだいたい同じ内容なので略しますが、「皇帝を継がせていただいたわたくし(嗣天子臣堅)」と桓武天皇の「わたくしは畏れおおくも天命を賜り(臣恭膺眷命)」のどちらも臣(上帝の臣)と名乗るあたりが一緒です。

 あと、先代の皇帝をあわせて祀ったり、「おそれながら昭告もうしつたえさせて……(敢昭告)」などのほそぼそ&ぎりぎりで何とか保っている危ういするどさがやはり詔勅と似ています。

 このように、実は桓武天皇って、かなりその詔勅などは隋の雰囲気を帯びているところがあるのかも……みたいにおもっています。ちなみに、このときの桓武天皇と合わせてつくられた藤原継縄つぐただの祭文は全然そういう雰囲気ないのです……。

延暦六年、藤原継縄が、おしれおおくも先代 光仁天皇に昭告もうしあげます。臣は庸虚おろかにしてもありがたくも天序てんのめぐりを承り、上玄ふしぎな天よきものたまわり、率土ちのはてまで心を安んじて、今まさに履長そだちはじめのときに当たれば、つつしみて郊禋の祭りを行い、よって上帝に煙を届させていただきます。

また、先代の光仁天皇はその慶流めぐみは絶えずして、その徳冠すぐれたることきらびやかなれば、祀り申し上げて昭升たかくよろこびたまいて、いつまでも天にならぶごとくして、謹みてぬさ犧齋にえ粢盛こめなどの庶品さまざまなものを奉りて、明薦おそなえして祀るので、めしあがれれば幸いです――。

維延暦六年……藤原朝臣継縄、敢昭告于高紹天皇。臣以庸虚、忝承天序。上玄錫祉、率土宅心。方今履長伊始、肅事郊禋。用致燔祀于昊天上帝。高紹天皇慶流長発、徳冠思文。対越昭升、永言配命。謹以制幣犧齋粢盛庶品、式陳明薦、侑神作主尚饗。(続日本紀』巻39 延暦6年)

 ……こちらは「天はよきものくだし給いて、率土すみずみまで心を安んじて(上玄錫祉、率土宅心)」が、さきほどの桓武天皇の「幸いにして頼ることになり……(幸頼)」のような危うい中でのぎりぎり繋がっていく感とは異なっているかもです(あと、桓武天皇は「四海晏然、万姓康楽」みたいなすごく明るい句も入っているというか)

 というわけで、桓武天皇の詔勅って、実はどこか隋ふうの雰囲気をおびているのかも……みたいな記事でした。かなりマイナーすぎる話題でしたが、お読みいただきありがとうございました。

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ぬぃ
こちらでは、中国文学のやや深く狭めな話をのせていきます(もっと分かりやすい話は、下のリンク先にあります♪)

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