「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。
こちらの記事では、日本の北原白秋についてです(もはや中国文学はあまり関係ないかもですが、むしろ東アジア的な感性があるというか……)
ちなみに、白秋というと若い頃(20代あたり)の作品がすごく有名ですが、ここでは私の好みとして中期作品(30代あたり)をみていきます(まぁ、私のサイトなので、その辺は独断と偏見でいきます)
というわけで、さっそく入っていきます。
豊美な長歌
まず、白秋のすごく独特なところとして、近代ではめずらしく長歌をつくっています。しかも、その雰囲気がとても万葉集に似ています。
水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、常寂びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋は門櫓いかしく高く、棟さはに倉建て並め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺なす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、庭広に干しも列ぬと、咽喉太の老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻の雌をし引き連れ、七十羽の雛を引き具し、春浅く閑かなる陽に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外にも満ち溢るれば……(北原白秋『篁』より「造り酒屋の歌」)
これ、大正時代の造り酒屋というよりか、白鳳時代(藤原京のころ)の宮中みたいじゃないですか……。
見慣れない語彙についてですが、「なぞへ」は斜面、「常寂びて」はいつも神が宿るごとく――、「大うから」は大族、「いかしく」は厳か・厳く、「さは」はたくさん、「ここだく」もたくさん、「かけろ」はニワトリ、「しじ」は盛んに……だとおもってください。
これ、みていると、いずれも多い・大きい系の語彙がかなりあります。しかも「咽喉太の」だったり「垂り尾のおごり」みたいな堂々たる雰囲気がかなり出てきて、この「おごり(驕)」はたぶん華やかで豊かな――だとおもいます。
たくさん倉を建て並べて、朝日夕日が八隅を照らして、八尺なす大桶があって……みたいに堂々と大きく豊かな……というのがすごく好まれていて、しかも「八尺なす(桶)」「七妻の(雌鶏)」「七十羽の(雛)」みたいに大きい・多い系の造語が枕詞みたいです。
ちなみに、万葉集の長歌も少しみてみます。こちらは柿本人麻呂(藤原京時代の歌人)です。
やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 行き沿ふ 川の神も……上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも(万葉集38)
これ、一見すると謎な形かもですが、「春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり」「上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す」みたいな対句があります。さっきの白秋も「七妻の雌をし引き連れ、七十羽の雛を引き具し」「水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ」みたいな対句が入っています。
しかも「神ながら 神さびせすと(神の如くに、神威をおびて)」って、白秋の「老杉の三鉾五鉾 常寂びて」の神木感に似てませんか。
さらに、「我が大君」の枕詞の「やすみしし」は、おそらく「八隅知る」もしくは「安らかに国をみる」が語源らしいです。あと、「たたなはる」は幾重にも重なる様子で、「青垣山」の枕詞で、ここでも豊かで大きい系です。
しかも、春の花・秋の黄葉はどこか吉野離宮の飾りのようになっていて、繊細な美しさというより、堂々たる宮廷のような雰囲気です(よく万葉集は雄渾で力強いというけど、激しくて荒いというより、どっしり大きい系の力強い題材を詠んでいる気がします)
それはさておき、枕詞の造語法だったり、好みの雰囲気だったり、よく出てくる語彙だったりを似せて、白鳳時代ふうの酒倉をみせてくるのが、すごく独特なスタイルですよね……。
ちなみに余談だけど、枕詞って、「ちはやふる(千の霊威が激しい)」の神、「ももしきの(百ほど敷きつめたような)」の大宮みたいな大きい神威系だったり、「ささなみの」の琵琶湖、「あをによし(丹と青きらびやかな)」の奈良、「そらにみつ(天まで満ちるごとき)」の大和みたいに土地を讃える系だったりと、いずれも宮廷を飾るような雰囲気が多いです。あと、「とりよろふ(取り鎧ふ。すべて揃っている)」の天香具山などは、枕詞ほど定着していない枕詞的な例です。
至妙境的ナンセンス
つづいては、少し面白い系です。
物臭太郎
物臭太郎が日向ぼこ
ぬうらりくうらり温くかろな。
物臭太郎が父さまも
どこかでぼんやり温くかろな。
物臭太郎がお母さま、
日永に去られて温くかろな。
物臭太郎がお祖父さま、
お墓の下でも温くかろな。
物臭太郎がお祖母さま、
なむあみだぶつで温くかろな。
物臭太郎が日向ぼこ、
物臭づくめで温くかろな。
物臭太郎がひとりごと、
明日もやっぱり温くかろな。(北原白秋『水墨集』より)
もはやなんとも云えません……。これ、すごく韻が練られていて、物臭太郎のm(もったり)、日向・日永のh(ほよほよ)、ぬうらり・なむあみ・温くかろなのn(のったり)、明日・お墓のa・o(ぼんやり大きい)みたいに、のよのよした音ばかりです。
もう一つ、好きなものを紹介してみます。
ビール樽
コロガセ、コロガセ、ビール樽、
赤イ落日ノナダラ坂、
トメテモトマラヌモノナラバ、
コロガセ、コロガセ、ビール樽。(北原白秋『白金之独楽』より)
まさかのカタカナ……。余談だけど、日本語ってひらがなだと母音が濃くて、カタカナだと子音が強くて、漢字だと一つ一つはっきり分けて読まれる――みたいにどこかでみたのですが、さっきの「なむあみだぶつ」のぼやぼや感とか、「ナダラ坂」の石まじりのガタガタ感とかがとても絶妙です。
そして、この何も起こらない感がすごくこれに似ています。
廬山の烟雨と浙江の潮、まだ見ぬときは千般の恨み消えずして、みて帰ってくればまた何もなく、廬山の烟雨と浙江の潮――。
廬山煙雨浙江潮、未至千般恨不消。到得還来別無事、廬山煙雨浙江潮。(蘇軾「廬山煙雨浙江潮」)
このどこまでも無意味な感じがとても似てませんか(白秋がこれを真似したとかではないけど)
ちなみに、白秋の詩論がとてもいいので、少しのせてみます。
ここに紅と緑との林檎が二つある。紅は紅、緑は緑で何れも明確である。而もこの二つがこの如くこの卓上のこの時間に重りころげて、深く深く相親しみ、色と色とを映じ、香りと香りとを混へ、影と影とをぼかし、本質と本質との接触を愉楽し呼吸することは真にこれ千万年にただ一度の機会である。この再びなき機縁をこの二つの林檎も感謝し、これを観る人も亦真に礼拝しなければならぬ。かうした場合、紅と緑とが愈々明確である故に、その中間の色合は、陰影は、その背後の空気は愈々深く、愈々美しく揺曳する。(北原白秋『水墨集』序文「芸術の円光」より)
この一たび限りの様子が、あるときは物臭な「のったり感」、あるときは「ガラガラゴロゴロとした諦めぶり」、あるときはざらざらと雨と瀾ばかりのひんやり冷たい大きさ――みたいに姿を変えています……。
さらに「詩は……芸術中の精華である。世に詩情なきまことの音楽家、画家、彫刻家、或は建築家、工芸美術家は有り得ない。無論真に傑出したる芸術家ならば先づ彼等は必ず真の詩人たる天稟をば最も豊満に享け得たに違ひないのである」とつづきます。
これって、たぶん詩は文章うんぬんではなくて、もっとこの世のひとときばかりの味わいとか姿とかを感じる心そのもので――みたいな話だと思っていて、工芸品や画なども技巧だけでなく、ある雰囲気(詩情)をふくませてあるかが真の味わいで――というのかもです。
天魔墜落
トドロキ墜チタル音スナリ。
眼ミヒラキ、聴キ入レヨ。
大千世界ノ春ノ暮、
光リカガヤクナニモノカ、
墜チテトドロク音コソスナレ。(北原白秋『白金之独楽』)
これはたぶん春の雷のドロドロとして、黄色のような紫のような妖しい色が天魔のごとくして、目を痺れさせる気色悪さです。
千万年にただ一遇の
しかも、白秋のすごいところは、さっきの酒倉の長歌みたいに様式で趣きを変えていくところです。
爺が張る四つ手の網に、月さしていろくづ二つ。その魚のくちびる紅き、この魚の背の鰭青き、現とも思へばつめたく、幻と見れば霧らひつ。けだしくも息づく物の、水よりは空や明るき、水離り空やさみしき。春浅き潯陽江の、この月の魚。(北原白秋『篁』より「月光と魚」)
「いろくづ」は魚、「霧らひつ」は霧がかっている、「けだしく」はどうやらor見ればみるほど、「水離り」は水から離れて、「潯陽江」は江西省の水名で九つの大きな水が湖のように合わさっているところです。木彫りの漁夫と魚の人形なのですが、こちらも長歌になっています。
そして、この色味がなんとなく不気味なほど大きくてぬわぬわしてませんか。実は、色味としてはすごくこちらの歌に似ているのかもです。
北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて(万葉集161、持統天皇)
まず、こちらの歌って夜なのに「青雲の」の青が不気味なほど明るいです。さっきの木彫り人形の長歌も、「月さして」とあるので夜です。なのに、「その魚のくちびる紅き、……背の鰭青き」が異様に明るくないですか……。
しかも、青・赤みたいな大まかな語彙しかないのが、かえってのよのよもわもわと重々しい雰囲気になっていて、どこかどんより鈍くて畏ろしい魅力です。あと、「星離れ行き」と「水離り」って、造語法がたぶん似ています(この星月と雲しかないような空が、すごくぬわぬわと不気味で明るくて大好きなのです……)
さらに、おなじく木彫り人形でも、白秋はこんなに雰囲気のちがうものを出してきます。
高砂の牡丹社の子か、命こめ、荒く彫りけむ。つたなけど静立つ牛の、をさなけどゆゆし力や。男ごころよ、ひたぶる恋ふと、下ふかく燃ゆる思の、えは堪へね、なほし堪ふると、遊びつつ、遊び彫りけむ、くるしくも寂びつつ寂びけむ、外には見せずも。(北原白秋『篁』より「荒彫の牛」)
むわむわと熱っぽくて粘っこい長歌です。これは台湾でつくられた木彫りの牛についてです。「高砂」は台湾の部族名、「牡丹社」は村名、「ゆゆし」は畏ろしい、「ひたぶる」はひたすらです。こちらは、なんとなく雰囲気がこちらの長歌に似ています。
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を(万葉集25、天武天皇)
こちらはあまり同じ語彙などは無いですが、「ひたぶる(ひたすら)」と「隈もおちず(山の阿ごとに絶えずして)」のその身だけのねっとり生きている感があって。あと、「下ふかく燃ゆる思」と「時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける」のじっとり抑え込まれて㠜々と荒く滾った雰囲気も、不気味でもの苦しい中で生きている古朴さというか……。
もっとも、白秋は万葉ふうの長歌以外もいろいろな作風をのこしています。
かやの実
かやの木に
かやの実の生り、
かやの実は熟れて落ちたり。
かやの実を拾はな。
さむざむと
さむざむと渡るもの、
時雨、鵯、山松の風、
遠々に落つる月、
君をのがるるわがこころ。
小夜ふけて
小夜ふけて、松かぜに
驚くこえは千鳥か、
月ほそし、松が枝の下、
松が枝の松の葉の濃さ。(いずれも北原白秋『水墨集』より)
これ、すごく短いのに味わい深いのは、実はそれぞれ榧の木のやや忘れられ感、初冬の夜の廊のうら暗さ、初冬の夜の障子の澄んだ堅さ――みたいなのをうっすら出しているためかもです。
こういうスタイルって、元禄期(1600s末期)あたりの俳句とかで生まれていて、短い中で複雑な季節感を出すのに向いています。
君が代をかざれ橙二万籠 舟泉
宿取て裏見廻ルやあか椿 寿仙
春雨や藪に投込む海老の殻 广盤
火のきえておもたうなりぬ石火桶 蘭仙
底寒く時雨かねたる曇りかな 猿雖
(いずれも柴田宵曲『古句を観る』より)
たとえば、二万籠ほどありそうな鏡餅の橙のめでたさ、宿のうらにある紅椿の痩せた華やかさ、海老のカラを捨てるようなちびた道の藪のうららかさ、ずっしりした石火鉢のようなつめたさ、曇り空のふん塞ったような重重しい寒さ――みたいに、わずかに一癖のついた季節感がそれぞれ出されています。
この微妙なニュアンスの入れ方が、さきほどの実を取るのも忘れられがちなカヤの木、一人で通るとうすら寒げな廊、松の翳が濃くうつる障子のつめたさ――などのわずかに一癖のある風物にすごく似ています。
というわけで、白秋って、古い様式をわずかに変えて用いたりするのが、ひとつの大きな魅力かもです。ほとんど中国文学の話しませんでしたが、お読みいただきありがとうございました。