「ぬぃの中国文学資料庫」にご来訪ありがとうございます。
こちらの記事では、白鳳(藤原京時代)~平安初期の詩についてみていきます。この時期って、中国からいろいろなものが入ってきてしまい、まだ整理が追いつかないまま、なんとか似たような文化を生みだしていく……みたいなイメージがあるかもです(私の中で)
この歪つで未整理な感じが、すごくふしぎなので、そういう雰囲気を紹介できたらとおもいます(ちなみに、姉妹編はこちら)
応制の詩
まずは、藤原京時代の藤原不比等です。
正朝は萬国に臨みて、元日にして兆民に迎う。政は玄造を敷べて、機を御して紫宸にあり。年華はすでにあらたまり、淑気も新しい匂ひで、鮮雲はふわふわと五彩にして、麗景はつやつやと耀かり。済々びたる周王の臣に似て、穆々き我が朝の人臣――、天の恩のうちに遊びては、聖の恩はいよいよ深かり。
正朝観萬国、元日臨兆民。有政敷玄造、撫機御紫宸。年華已非故、淑気亦維新。鮮雲秀五彩、麗景耀三春。済済周行士、穆穆我朝人。感德遊天澤、飲和惟聖塵。(藤原不比等「五言元日応詔」)
……ごてごてと堅い(笑)ちなみに、なんとなく王朝の讃え方が似ているのは、中国だとこちらかもです。
至仁にして八方文らかに、これは聖く宣くして、太師は六義にして下らず、諸侯は百年を祝いたり――。玄覧は時を乗て、訓旅て山川の間を次りたり。その鎮象の休気明るく、華蓋の烟も巻きて、千人の鼓奏 響かせたまえば、璇璣の旌はなないろに鏤る如くして、峻き岭は日を止めるごとく、高き峰々はてらてらと灼るくして、山々での神游を終えて、蕭の関より帰り給えば、さらに東の山のうえにて、世を巡狩へり。
至仁文教遠、惟聖武功宣。太師観六義、諸侯問百年。玄覧時乗隙、訓旅次山川。鎮象屯休気、華蓋翼飛烟。鼓奏千人響、旗動七星連。峻岭戈回日、高峰馬煦天。姑射神游罷、蕭関獵騎旋。更待東山上、看君巡狩篇。(隋・李徳林「従駕還京詩」)
もっとぎちぎちですね(笑)日本では、もともと宮中で詩などがつくられるようになったので、最初に似せてつくられたのが宮廷などを讃えるためのスタイルでした。
なので、もっと古い楚辞(戦国期の楚の神楽)・古詩十九首(後漢ごろの生きていく悲しみを詠んだもの)ではないのが、すごく興味深いです(この必ずしも時系列どおりではない輸入――というのが、日本での詩のややふしぎなながれを生んでいるのかも……)
辺地の風物
さらに、万葉集では遠くの任地に行ったときの官人たちの歌が収められています。
淡路島 門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ(万葉集3894、詠み人知らず)
藤波の影なす海の底清み 沈く石をも玉とぞ我が見る(万葉集4199、大伴家持)
多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ 見ぬ人のため(万葉集4200、内蔵縄麻呂)
淡路島の波のうえだったり、越中の瀾のうえに映る藤の花など、地方特有のふしぎな風物がでてきます。この官人がみてきためずらしい風物というのも、実は六朝の中ごろに似たようなものがあったりします。
多くの峰がするどくして、さりさりとして百重ばかり――、さらさらとして白波がつづけば、石に激りてまた流れていく。神物はこのあやしき景色をつくりて、また波ばかりがさりさりさり。
寒そうな鳥は樹の間に響いて、夜明けの星たちが川のそばに浮々として、霜ばかりが岸の草に光るような、暗い霧がのよのよと薄くながれるような――、鱗々として小波が立って、瀰々として舟にまとえば、舳先より遠くをのぞみて、しだいしだいに朝が明るくなります。こんなときには百里ばかりが、縈るばかりの山ばかり――。
群峰此峻極、参差百重嶂。清浅既漣漪、激石復奔壮。神物徒有造、終然莫能状。(梁・任昉「厳陵瀬詩」)
寒鳥樹間響、落星川際浮。繁霜白暁岸、苦霧黒晨流。鱗鱗逆去水、瀰瀰急還舟。望郷行復立、瞻途近更修。誰能百里地、縈繞千端愁。(何遜「下方山詩」)
この地方のすこしありがちなのにやや変わった雰囲気のある風物が、すごく味わい深いです。しかも、任官の途中でおそらくみたものだとおもうのですが、万葉期の官人たちもその頃に最も身近だった気分が、こういう任官地でのめずらしい風物なのかもです(もっとも、六朝の詩を真似したというより、たまたま似たような気分のものが残っているだけだと思うけど)
ですがさらに万葉期には、任官する人を送る側の歌がのこっていて、それがかなり万葉期ならではの混ざり方なのです。
住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ(万葉集4243、丹比土作)
春日野に斎くみもろの梅の花 栄えてあり待て 帰りくるまで(万葉集4241、藤原清河)
これは「斎く(祀る)」がすごく不思議です。住吉の神人がお告げで「行くも帰るも、この舟は速いでしょう」と云ったり、「みもろ(神の宿るところ)」の梅の花は、いつまでも咲いて帰るまで待っていて――みたいに、やや土俗的な呪物・自然信仰などが本当に効くと信じられている感性が残っているというか。
この呪術的なものが効くと信じられつつ、やや整った官制のなかで任地のめずらしい風物にも驚いて――みたいに、いろいろな感性が汩然にまざってしまっているのが、万葉時代っぽいかもです。
(ちなみに、呪物などが本当に効くという感性があったのは、中国では楚辞のころだったりします)
どうにもならない
ところで、白鳳期の詩として、とても有名なものが、こちらの大津皇子(白鳳期の皇族。叛乱者にほとんど仕立てられて、自害させられる……)の辞世です。
金の烏が西にしずめば、その聲は短く鳴けり、泉路には賓主なく、ただ夕の落ちた薄暗さ。
金烏臨西舎、鼓声催短命。泉路無賓主、此夕離家向。(大津皇子「五言臨終一絶」)
実は、こちらは梁の皇族だった蕭繹が、西魏に攻め込まれて囲まれ、もはやここまでとなったときに、おそらく壁に書きつけたようなどうにもならなさがすごく似ています……。
南風には死臭多し、西の御墓は暮れにけり、今日蒿里への旅をするならば、今日は封禅の日に非ず。
百六年に一度の厄い、天の道は貞恒からず――。大鳳大魚の肉とても、蟻などに噛み碎られり。
南風且絶唱、西陵最可悲。今日還蒿里、終非封禅時。
人生逢百六、天道異貞恒。何言異螻蟻、一旦損鯤鵬。(梁・蕭繹「幽逼詩 其一・其二」)
この剥き出しの薄暗さが恐ろしいのですが、なぜ蕭繹(梁の皇族にして、ぬれたような光を好むタイプ)のわざわざこちらにすごく似ているのか……みたいに思っていたのですが、おそらくこのどうにもならない剥き出し感だけが、おそらく蕭繹の中でも白鳳期にも実感できたがさがさした薄暗さで……みたいにおもっています。
ちなみに、六朝~初唐を通しても、このような辞世の詩は他にほとんどないので、白鳳期の有名なものが、むしろ中国ではかなりの異色系……みたいになるかもです。
平安初期の詩
こんなふうに、いままでの白鳳~天平期あたりでは、実はけっこう未整理だけど実感のできるところだけ入れて……というのが、中国文学の輸入だったのかもですが、平安初期になってしだいに唐代の情趣だけを漂わせたような詩に似てきます。
昔は幽い岩の下にあって、その光華は四方を照らし、忽ちにしてある客が持ち帰りて、ひらひらとして春を飾る。その香りは淡くして漂うごとく、うっすらと翳ればいよいよ白く、わずか一枝にして、春のいろを含みたり――。
宮人はひっそりと冬の御簾の内――、蹉跎にして歲月は雪の中――。燭りがちいさくゆれて星がしだいに薄くなるような、庭の花ばかりがほろほろと凍てる時雨にぬれたような色をして、朝陽が出れば林の薄煙は白々として鳥が鳴き、音のみの水はしらしらと冰を切るごとく流れけり。こんな夜には、ひとりで春衣を試し遊んで、朝には柳の條枝がちらちら濡れました。
昔在幽岩下、光華照四方。忽逢攀折客、含笑亘三陽。送気時多少、乗陰復短長。如何此一物、擅美九春場。(平城天皇「賦櫻花」)
幽人無事任時運、不覚蹉跎歲月除。暁燭半残星色尽、寒花独笑雪光餘。陽林煙暖鳥声出、陰澗冰消泉響虚。故匣春衣終夜試、朝来可見柳條初。(有智子内親王「七言 奉和除夜」)
さきほどまでの六朝&白鳳~天平期の詩が、どちらかというと物だけがごつごつと並んでいる感があったかもですが、こちらはいずれも櫻の花のひらひら明るい感じだったり、早春のまだ肌寒いけど明るい――みたいに、むしろ趣きだけをみせているというか。
やや細かくみていくと、六朝&白鳳期の「瀰々として舟をめぐらせて(瀰瀰急還舟)」「鮮雲は五つの彩をまといて(鮮雲秀五彩)」みたいにかなりゴテゴテしています。一方で、平安初期は「その光華は四方を照らして(光華照四方)」「日が暮れてひらひらと翳をまといて(乗陰復短長)」みたいに、もっとまわりに溢れるムードをみせているみたいな違いです。
ちなみに、初唐の詩をひとつみてみます。
家は嵩山の近くにあって、よく山の薇を采っていたが、水石の間を歩くごとに、夜々にこんなふうだったのかもしれないのに――。
家住嵩山下、好采旧山薇。自省游泉石、何曾不夜帰。(宋之問「嵩山夜還」)
こちらも「水石の間を歩きながら思い出せば……(自省游泉石)」みたいに、ややぼんやりと沈んだムードのほうをみている感があります。
こんなわけで、白鳳~平安初期は、初めは実感のあるところからいびつにでも取り込んでいき、万葉期などは多少あやしい混ざり方になりながら、平安初期に至って、だいたい唐の同じころのスタイルになっていく――みたいな流れなのかもです。
(なので、謝霊運などのあまりに特殊でむずかしい内容だったり、漢賦などのすごく難しい字を入れて王朝を讃えている技巧派などは、いくらかすっ飛ばしているかもです……♪)
というわけで、かなり長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。